春は終わったけれど、夜に吹く風はまだすこし冷たい。ベランダに出て大きく深呼吸をする。湿った土と草の青い匂い、それから近くを流れる川の、どことなく生臭いような匂いがした。夜の空気は昼にくらべて水分を多く含んでいる。息を吸い込むたびに暗い深海を漂っているようなうっとりとした気持ちになるのはそのせいかもしれない。
もし自分が深海魚であったらどんなかたちがいいだろう。冷えた腕をさすりながら部屋へ戻り、図鑑を手にした。頁を何枚かめくってふとわれにかえる。部屋中に甘い果実の匂いが充満している。そうだ、今は苺を煮ていたのだった。琺瑯の小鍋のそばまで行くにつれ甘い匂いは強くなる。赤い宝石のようにつやつやとして、熱い。何か小さな生き物の心臓のようだとも思う。このジャムをあげる人にはもちろん、そんなことは言わないけれど。

ーこの季節は、苺のジャムをよくつくるんです。

スーパーで久々知さんと偶然会ったとき、かごの中には苺のパックがいくつも入っていた。よっぽど苺が好きなのだろうかと言いたげに首をかしげた久々知さんにそう答えた。久々知さんは思ったことをすぐに口に出す人ではないようだった。けれど、その大きな瞳を見ていると彼の言いたいことが、聞きたいことが何となくわかる。その点もやはり実家の猫に似ていて、そのたび少し温かい気持ちになる。

ジャムって、簡単につくれるんですか。

きらきらとした好奇心を体全体から散らしながら、久々知さんも苺のパックを手にとった。腕にかけたかごの中には以前と同じく豆腐やカップ麺が入っている。およそ料理をしたことがなさそうな細長い指を見ながら、簡単ですよと答えると彼は嬉しそうに笑い、苺をかごに入れた。一緒に店内をまわりながらジャムのつくりかたを簡単に説明して、別れ際に連絡先を交換した。ジャムをつくっていてわからないことがあったら電話をしてもいいだろうかと尋ねられたのだった。けれどきっと電話がかかってくることはないだろうと思った。ジャムをつくるのはとても簡単だし、久々知さんはそういうことを上手にやりそうな気がしていた。だから夜更けに彼から電話があったときは驚いた。

遅くに電話してしまってすみません。
いえいえ。ジャムできましたか?
それが、どこで火をとめていいものかわからなくて、飴みたいになってきてて…
そ、それは…
もう取り返しがつかないんでしょうか……

電話越しに聞こえる悲しそうな声と、スーパーで見た嬉しそうな笑顔が頭の中でくるくるとまわって、それから何故か実家の猫の顔が浮かんだ。いてもたってもいられずに口を開いていた。

私も今ジャムつくってるんですけど、思ってたよりも多めにできそうなのでもらっていただけますか?
えっ!本当に?いいんですか?
はい。むしろ助かります。
ありがとうございます。…何だかすみません。俺のつくったジャムと交換できたらよかったんですけど。
でも、ちょっと興味があるのでよかったらください。飴ジャム。
…飴ジャム。本当に持って行きますよ。
はい。ぜひ。

電話を切ってすぐに、砂糖とあわせておいた苺を火にかけた。夜遅くにジャムをつくるのはあまり好きではないので、本当は次の日の朝からやろうと思っていた。夜の気配とひとりで苺を煮るということ、その二つが合わさるとどうにも説明できない心細さにおそわれる。けれど今夜は平気だった。やっていることはいつもと変わらないのに、これは誰かにプレゼントするものなのだと考えただけで不思議な安心感があった。
木べらを動かしながらふと笑いがこぼれた。私はもしかしたら久々知さんと実家の猫を同じようなくくりで考えているのだろうか。そもそも最初の出会いからして。そう思いついたら笑いが止まらなかった。
ふふふと笑っているあいだにもどんどん時間は過ぎる。川からの風に背中を押されて、深まってゆく夜の波を軽々とこえられそうな気分だった。



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