春に嵐はつきものだといいますが、嵐がくる前というのは非常に静かなものです。春の夜のまだ少し肌寒い中を歩いていますと自然気にかかるのはナマエのこれからのことでした。強靭な精神力と図太い神経を持ち合わせている彼女ですから逃亡中に病に倒れる心配などは到底ないと思うのですが、なんといっても今の彼女は殺人犯であるらしいのです。それが本当ならばきっと遠からず指名手配されるのではないでしょうか。友人としては見過ごせないところです。…と、一日の業務を終えて帰宅する道すがらにクダリに話しますと、クダリはそんなわたくしの言葉を一笑に付しました。なんとも失礼な弟です。

「ナマエのことは心配するだけムダ。ぼくらよりよっぽどたくましい。でもほんとにナマエがそう言ったの?…人を殺したって」
「それが微妙なところなのです。混乱していたようであまりきちんとした会話もできませんでしたので」
「いつものたちの悪い冗談かも」
「冗談を言っているようには見えませんでした」
「うーん…ナマエ、人格には問題ある。けどやっちゃいけないギリギリのところはわかってると思う」
「わたくしもそう思います」

いまいち緊迫感に欠ける会話を交わしながらマンションに着いたわたくしたちはひとまず各々の部屋へ帰るべく別れました。…とは言いましても同じフロアの端と端なのですが。始めは別々のマンションを探していたのですが結局同じところに住むのが一番合理的だということに落ち着いたのです。
エレベーターを降りてしんとした廊下を歩いていますとわたくしの部屋の前にどなたかがしゃがみこんでいるのが確認できました。その時点で八割方その方の正体はわかっておりましたが、さっそく騒動の種が自分の元へ舞い戻ってきたという事実を認めたくない気持ちもあり、出来る限りそちらを見ないようにしながら歩を進めました。わかっております。人はこれを徒労と呼ぶのだということは。わたくしなりに限界まで努力はいたしましたが玄関の鍵を開ける段になりますとやはりこれ以上の無視は難しいということがわかり、わたくしの家の前でしゃがみこんでいる女性…ナマエに渋々声をかけました。

「…何をしているんです」
「行くあてがないの」
「安心しなさい。行くあてならありますよ。わたくしが一緒に行ってさしあげますからほら立ちなさい」
「警察はいや」
「もし本当に罪を犯したのならば行くべきです!そんなことよりナマエ、あなたわたくしにバタフリーをけしかけたでしょう!ポケモンの技を人間に向けるなど、もしわたくしがあれきり目覚めなかったらどうするつもりだったのです!」
「何、昼間のこと根に持ってるの?ノボリなら大丈夫って思ったんだもん。それに実際大丈夫だったじゃない」
「ノボリうるさい。ぼくの部屋の方まで声が聞こえてくるんだけど何してるの…ってうわ、ナマエだ」
「あら、クダリ。こんばんは」
「こんばんは。きみ人殺したんだって?こわーい」
「怖いといえばこの間顔がコワイって子供に泣かれたって聞いたけど本当?クダリちゃん」
「何それ、ぼく知らない。最近子供のお肌がうらやましいってどこかの誰かがぼやいてたって話なら知ってる」
「…………」
「…………」
「…とりあえずナマエもクダリも中に入りなさい」

いつものようににらみ合いを始めた二人を部屋の中へ押し込み、後ろ手に玄関の鍵を閉めたわたくしを疲労感がどっと襲いました。一刻も早く休んで明日のバトルへ備えたいというのに、それはまだ当分許されないような予感がいたします。きっと今日のような日を厄日というのでしょう。





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