寝苦しくて目がさめた。今夜はずいぶん気温が高い。
汗でしめった寝巻を洗ったら眠気もどこかへ流れていった。どこか涼しいところに行きたい。露でぬれた草をさあさあと踏みつけてあるく。風がふくと裏山の木たちがいっせいにざわつく。もうすこし奥まで行けばお気に入りの大木がある。
こしかけてくつろぐのにちょうどいい枝ぶりの木だ。ゆっくり歩いていくと木の根元がいやにくろぐろとしていて、それはよく見ると地面にあいた大きな穴なのだった。そしてそこからきろりとこちらをうかがうちいさな穴がふたつ。

「ねえナマエ、何持ってるの?」
「お茶」
「ぼくも飲みたい」
「半分までならいいよ」

穴のふちから目玉をのぞかせていた綾部喜八郎は、お茶の入った竹筒をうけとって猫のように顔をすりよせた。のどが渇いていたのだろう。まだこの穴は掘りかけなのかふだん彼が掘るものよりも浅く、そしてずいぶん広かった。ひと一人が底に寝転がってもまだ余裕がありそうだ。ひんやりとしてゆたかな土のいいにおいがする。ぐいっと口元をぬぐってから喜八郎はわたしを見上げた。

「ありがとう」
「うん」
「穴に入ってゆく?」
「もう出来上がりなの?」
「うん。休憩用に掘った」
「じゃあちょっとだけ」

穴の真ん中でひざを抱えて座っている喜八郎にならって、そのとなりに同じようにして座った。地面よりもすこし低いところに来ただけでだいぶ風の音が遠くなる。耳をすませるといろいろな生き物の気配を感じる。上を見ると梢のすきまから雲が移動していくのが見える。星と月はあまり見えない。雨が近いのだろうか。湿度がどんどん高くなってきているようだ。そろそろ行った方がいいかもしれない。立ち上がろうとしたちょうどそのとき、喜八郎がごろりと横になって気持ちよさそうにのびをした。

「あ、それ」
「なーに?」
「気持ちいい?」
「うん。夏はこのまま寝てしまうこともある」
「それはちょっと」

虫にさされそうだね、と言おうとしたけれど、急に髪をひっぱられたので言葉が途切れた。大の字に転がっている喜八郎の右腕が頭の下にある。しばらくひざを曲げたまま固まっていたものの諦めて足をのばした。すぐに喜八郎の右足がわたしの左足に乗っかる。土のつめたさですこし冷えてきていたからだに、自分のものではない熱がここちよい。左腕の置き場をすこし迷って喜八郎の頭の下にねじこみ、全身の力を抜くとなんだか奇妙な気持ちになった。今のわたしたちを空の高いところから見たらおもしろいかもしれない。ふたりともおなじ格好で寝転んで、お互いの腕をまくらにしている。秋にもこれをやったら楽しそうだ。きっと黄色や赤の葉がすべるようにしてわたしたちの上に落ちてきてどんどん積もってゆく。とりとめのない考えが次から次にわいて、それはつまりここはとても居心地がいいということだった。

「これはくせになる感じ」
「そうでしょう」
「ねえ喜八郎」
「ん?」
「腕がしびれちゃった」
「ぼくも」
「やめよっか」
「うん」

お互いの頭の下から腕をひきぬいて、もう一度ごろんと横になった。風にあわせて木がゆれるのを眺めていると意識がどこか遠いところへ飛んでゆきそうになる。今夜の裏山はいつもよりも静かだ。上級生は野外の演習でいないと聞いた。だからだろうか。寝返りをうって視線を横へやると喜八郎がこちらをじっとみていた。いつの間にか晴れた夜空からわずかに届く星の光を反射して大きな目がぼんやりと光っている。瞳の中に星があるみたいだ。

「どうしたの」
「ナマエ、楽しい?」
「うん、すごく」
「それはよかった」
「喜八郎」
「なあに」
「わたし、そろそろ出たほうがいい?」
「ううん、まだしゃべろうよ」
「うん」

ずいっとこちらへ寄ってきた喜八郎はおしゃべりしようと誘ってきたわりに何も話そうとしなかった。ただわたしの肩におでこをくっつけて少しうとうとしたり、揺れる木をみたりしていた。穴の底に耳をつけて土の中の音を聞いたり、ふくろうらしき影がすごい速さで横切ったときに目を丸くして目配せしあったり、朝がきてすきとおった光がそこらじゅうに広がるまでわたしたちはしゃべらなかった。なのになんだか夜通しおしゃべりしていたような、へんな疲労感と充足感がある。明るくなった山の中でわたしたちはどちらからともなく立ち上がり、穴を出て歩き出した。鳥たちがせわしなく鳴く声とふたりぶんの足音だけがあたりに響く。踏鋤を肩にかついですこし前を歩いていた喜八郎は、まえぶれなくぐるりとこちらをふりかえった。

「喜八郎、眠そうな顔だね」
「光がまぶしくて。それより、ねえ、ナマエ。」
「ん?」
「これ」

はい、と差し出された踏鋤の柄をとっさに握ると、喜八郎は満足したようにうなずいてまた歩き出す。お互いにはじとはじを握っているから、わたしと喜八郎が歩くのにあわせて踏鋤がゆらゆら上下する。なんだかまだ学園に来る前のころを思い出す。近所の子とよくこうやって山の中で遊んでいた。喜八郎といると、いつもこうだ。まだ生まれたばかりのこどもになったような気がして、からだの力が抜けてゆく。へんなの。へんかな?へんだよ。ぽつりと落としたひとりごとに反応した喜八郎はへんなのか…と少し考えてから、このやりとりに変な節をつけて歌い出した。気に入ったようで、肩のあたりが楽しそうにゆれている。朝日がやけにまぶしくて目をあけていられない。このままこうして歩いてゆけば、次に目をあけたらどこか見たこともないようなところにいるんじゃないかなんて考えてしまうような、そんな気分だった。