食べてしまいたいくらい好き、という表現がある。これは相手とひとつになりたい気持ちをあらわすもので、ある種の愛の言葉であるらしい。気色の悪い人食い巨人どもの闊歩する外の世界を知る身としては、ずいぶんひねりの利いた愛の言葉だと皮肉の一つも言いたくなるが逆に考えれば人類のしたたかさをあらわしている言葉だともいえるかもしれない。違うかな。きっと違うな。私は今、なんでもいいから八つ当たりしたい気分なのだ。その標的として罪のない言葉を選んだ。自分で処理しきれないことがあった時にやり場のない気持ちを適当なものにぶつけて、とりあえず消化したことにするのは私の癖なのだそうだ。ハンジさんが言っていた。それを良いとも悪いとも決めないハンジさんのことが私は好きだ。単にそんなことには興味がないだけという可能性も大いにあるけれど。でもそこは突き詰めて考えないようにしている。どんなことでも考えればきりがない。たとえば人生とか。人生。反吐が出るほど嫌いな言葉だ。人が生まれてから死ぬまでの時間なんてたかが知れているのにそこに妙に教訓めいた響きを連れてきてしまう人生という言葉が私は本当に嫌いで、なのにそのことを考えずにはいられない。本当に、本当にいやだ。ひと山いくらという風に軽く消費されていくのが私たち調査兵団の命だとわかっていたつもりでいても、実際に自分の隣に立っていた人間が死ぬまではそう実感できなかった自分の鈍感さ。こんなことではいけないと思う。もっと冷徹に、自分の体はただの道具なのだと言い聞かせなければ。この心臓はとうに人類に捧げたのだから。

壁外調査で巨人に食われて同期が死んだ。彼女の死に、私はとても動揺している。
同期どころか同郷の幼なじみであった彼女と私はよくこの世界の仕組みについて話をしていた。私たちひとりひとりは実は「人類」という大きな生き物を構成している細胞のようなものではないかということ。そして巨人というのは人類がかかってしまった病気で、私たちはそれを治療するために戦っているのだ。だから戦いの中で細胞がひとつ消えたからといって悲しんだり怖がったりする必要はないのだと。今思えばそれは私たちが兵士になるために必要な儀式だった。私たちはとても怖がりだったから、そう思わなければ戦えない。気持ちを固定しないままで外へ出ればきっと巨人への憎しみよりも先に恐怖が立つ。それがわかっていたから私たちはあえて感情を殺した。殺したはずだった。なのに今の私はどうだろう。きっと情けない顔をしている。朝からずっと部屋を出られずに、のろのろと彼女の荷物を片付けている。今日は生け捕りにした巨人を調査するための準備があるからあと少しで部屋を出なくてはいけないのに。もうとりあえず今は考えるのをやめようと立ち上がりかけたのと同時に扉がノックされて背すじがのびた。どうぞと答えた声が弱々しくかすれて、自分のことが嫌になる。

「…入るぞ」
「兵長…?どうしたんですか」
「ナマエよ、お前、何か言いたいことがあるんじゃないのか」

思いがけない来訪者だった。部屋へ入ってきたリヴァイ兵長は遠慮なく私のベッドへ座ってこちらをじっと見ている。私から兵長へ言いたいこと。何かあっただろうかと考えたがまったく心当たりがない。早く答えないと怒られそうだしだからといって適当なことを答えても怒られるだろう。だんだん冷や汗が出てきつつも黙っていると兵長はもう一度口を開いた。

「お前が部屋から出てこねぇと聞いたんだが…それは昨日死んだお前の同期と関係があるのか?…だとしたらそのことで何か言いたいことがあるんじゃないのか」

ひゅうと喉が鳴った。兵長は私のことを心配してここへ来てくれたのだ。自分のふがいなさに目の前が真っ赤になったような気がした。平静を失って視神経にまで影響が出たのだろうか。仲間を失ったのは私だけではない。中にはひとりも助からなかった班もあるのだ。こんな風に感傷に浸っている時間があるのならば少しでも人類の未来のために動かなければ死んでいった者たちが救われない。はずかしい。とてもはずかしい。こんなくだらないことに兵長の時間を割かせてしまったのを謝って外へ出なければ。そう思ったのに私の体はちっとも動かず、かわりに決して言うべきではない言葉が口をついた。

「…こわいんです」
「何がだ」
「私と彼女は決めたんです…感情なんていらないって。捨てたはずだったんです。なのにこわいんです。怖くて情けなくて…それに、巨人が憎くてたまらないんです。一匹残らずぐちゃぐちゃに切り刻んで殺してやりたい!こ、こんなに次から次に、感情がわいてきたら、うまく戦えないのにどうしようもないんです!」

何を言っているんだ、黙れ黙れと命じても口は勝手にべらべらと話し続ける。脳と体がうまくつながっていない。感情がたかぶって涙がにじんできて、ますます焦りに拍車をかけた。けれど兵長は特に怒ったりもせず黙っていて、床にべたりと座ったままの私を見ている。もしかしたら呆れきって何も言えないのかもしれない。喋りたいだけ喋ってようやく動かせるようになった腕で自分の口をふさいだが、時すでに遅しだ。静まり返った部屋の中で、もうこの場から消えてしまいたい一心で床を見つめているとおもむろに兵長が立ち上がった。

「それで?」
「え?」
「お前は感情を捨てて、かわりに何かを得たのか?」
「いえ…ただ巨人と戦えるようになっただけです」
「感情がなくて殺すだけなら巨人どもと同じだ…まぁ近頃は例外もいるようだが…恐怖で体が動かなくなったり憎しみで自分の役割を見失ったりしない限りは感情は必要だ」
「でも」
「友人が死んだんだろ…泣けるうちに泣いとけ、感情をコントロールできるようにしろ」
「…悲しくてもいいんですか…?捨てられなくても、戦えるようになりますか」
「そもそも簡単に捨てられるようなもんでもねぇだろ…どうしてもいらねぇって言うなら全部俺に預けとけ、クソガキ」

そう言っていつものように眉間にしわをよせた兵長は手の甲で私の頬を軽くたたいてから外へ出て行った。しばらく呆然としていた私は遠ざかっていく足音に我に返ってあわてて彼の後を追いかける。たたかれた頬が燃えるように熱い。いいの?だって、今までこんなに溜め込んでなかったことにしていた私の感情なんて、ろくでもないもの。そんなことを言われたら信じてしまう。安心しきってゆだねてしまう。前を歩く、私より少し低い兵長の肩が涙でにじんでよく見えない。一体この人の背中にはどれだけの命が乗っているのだろう。今まで死んでいった何百人もの仲間たち。兵長が私などよりはるかに強いのは重々承知の上で、少しでもその重さを共に背負えるようになりたいと心の底から思った。今はただ背負われているだけだとしても。こんなに強く何かを望むのは初めてで、そのことがとても嬉しい。とうとうこらえきれなくなった涙をぼろぼろと零しながら、私は幼なじみへ心の中で話しかけた。ねえ。感情があるってやっぱり大事なことだったみたい。この方が今までよりずっと強くなれそうだよ。あなたの分まで私は頑張るよ。それから、守れなくて、ごめん。
追いついてきた私が鼻水をたらしながら泣いているのに気がついた兵長はものすごく嫌そうな顔をした。

「おい、汚ねぇからそのツラどうにかしろ」
「洗ってきます!」
「お前もう仕事の時間だろ…?とりあえず拭いとけ」
「え、あ、はい」
「袖で拭くな汚ねぇ!返さなくていいからこれ使え!」
「ありがとうございます…!」
「…悪くねぇ頭持ってんだから妙なこと考えずにこのクソみてぇな世界が少しはマシになるように使え」
「はい!」


汚れひとつないハンカチを私の顔に投げつけて兵長は廊下の角を曲がっていってしまった。私はハンカチを握りしめながら、頭のかせが外れたような爽快感を噛み締めてしばらくその場に立っていた。この世界でやりたいことは山ほどあるのに実際に出来ることなんてほとんどない。いつか巨人を絶滅させることができたとしてもその日までには私もハンジさんも兵長だって死んでいるかもしれない。それでも進むしかないのだ。毎日毎日、たとえ目にみえないほどのわずかな距離でも進んでいくしか。もしも生きているうちにそんな日を迎えることができたら、私は武器を持たずに外の世界を歩いてみたい。みんなと一緒に探検をするのだ。兵長、私本当はいつかみんなで一緒にピクニックとかしてみたいんです。多分あなたは鼻で笑うでしょうけど、そこには絶対に兵長にいてほしいんです。私はもう二度と感情がいらないなんて思いません。約束します。

私は兵長が歩いていった方向へ敬礼をして、仕事場へ足早に向かった。もう一瞬だって迷っている暇はないのだ。頬だけではなくて全身が熱い。死んでいた私の心に火をつけた兵長と肩を並べて立てるような兵士になるのだと思うといても立ってもいられなかった。