惚けた顔でこちらを見る山田を置き去りにして私は逃げた。何度も転びそうになりながら階段を駆け下りる。観光客がいっぱいいてよかった!これだけ人がいたら私のことなんてきっとすぐに見失う。ああそれにしてもなんてばかなことを言ったんだろう。
いくら悔いてもいちど口からすべりでてしまった言葉はなかったことにはできない。
大丈夫だと思っていた。私だけはそんなふうにはならないとどこかで思っていた。
私は無力だった!あれの前では皆等しく無力!わけのわからない言葉を叫びながら腕をふりまわし狂人のように走り回りたかった。でもだめよナマエちゃん。あなたのおうちはご飯屋さんでしょう。そんなことしたら明日からお客さん来なくなっちゃうわよ。なんてことを考えられるていどには冷静。そう、私、早くお店に戻らなくっちゃいけないのだからこうして走っているんです。お昼のピーク時をすぎた店内は落ち着いていてレジの前に立っていた母は私の膝から流れている血をみて目を丸くした。お店の前の階段でね、急に膝から力が抜けて転んだの。えへらと笑ってそう告げるといい歳して何をやってるのお店は大丈夫だからそれどうにかしてきなさいなんて怒られてあらゆる意味で私の立つ瀬なし。
とりあえず傷口を洗おうと裸足になりお風呂場のすべらかなタイルの上に立ったらば何だかむしょうにお風呂に入りたくなってしまって私はこっそり追い焚きのスイッチを押した。お母様ごめんなさい。働いている母をよそに娘は今から風呂に入ります。

すとんすとんと服を脱ぐ。畳の上に落ちた下着をつまさきで拾い上げてずんずん歩く。
わたしこうやってすっぱだかで家の中を歩くのが大好きなのです。好きなの。すき。
罪のないその二文字が今の私をどれだけ苦しめていることか。言葉に罪はないけれど今の私にはあるかしら。ないかしら。途切れない思考はけれど熱いシャワーによって簡単に停止する。ぎゃあと小さく叫んで水圧を弱めた。かたまりかけていた血液がじくじくと熱をもって溶けて痛みだす。血や髪の毛や古い皮膚が泡と一緒に流れていく。この泡と一緒に今日一日も流れていって山田が一日ぶんだけ記憶喪失になればいいのにと思う。
だって山田が悪いんだから。なんにもわからないって顔して、ばかみたいな顔して、なんで?なんて聞くからいけない。だからといって正直にあんたのことが好きだからって答えることもなかったんじゃないの私も。そもそもどうして男に生まれたらよかったなんて言ってしまったの。それは多分この暑さのせいだと思うんだけれどどうでしょう。暑くて暑くて、私の隣に山田がいて、山田の隣には私がいるのに山田があの年下の男の子達のことばかり話すから。あいつらだけじゃ頼りないから今度釣りにいくときは俺の船を出してやるんだなんて楽しそうな顔をしているから。25歳にもなって不器用で、友だちがいなくて、いつも遠くからあの子達のことを見ていたくせに。俺にはタピオカがいるからいいんだなんて強がりも、仕事と高校生の両立も大変だぜなんて愚痴も、はじめは私だけのものだったのに。厳密に言えば私とタピオカだけの。タピオカ。あの白くてかわいい、山田の大切なアヒル。山田なんかよりずっと賢いあの子。会いたいな。タピオカ。タピオカには会いたいけど山田には二度と会いたくない。ああもうだめ、私は自分よりずうっと年下の男の子達に嫉妬したあげくに自爆、こうしてお湯に体を浸しながらしかめ面しかできない有様なのでもうこのお風呂場で生涯を終えたい。

膝をかかえて丸くなったからだを通り過ぎるぬるい潮風が気持ちいい。ああ、私、男の子じゃなくて江の島の海になりたいな。海になればずっと山田の近くにいられるでしょ。あいつ釣りばっかりしてるし。二度と会いたくないと思ったそばからこんな思考がわきでる自分の脳みそが理解できない。私はどうしてこんなに山田が好きなの。本当の本当を言えば私は山田に好きと言ってしまったことを仕方なく思っている。植物だって蕾をぱんぱんに膨らませたらあとは咲くだけなのだ。ううん、花なんてきれいなものじゃない、膿のたまったにきびみたいなものだ。はじめはきれいだったのにどんどん汚いもので膨らんでゆく。山田をどうにかしてやりたいという気持ちが膿んではじけてしまったのだ。あわよくばこれが山田にもうつってしまえばいいと思っている。山田の汚い気持ちも何もかもが私に向けられればいいと思っている。こんなにもどろどろしている私にくらべてあの男の子達のなんてきれいなことだろう。少しずつ歩みよって、相手を大切に思う気持ちを美しく咲かせている。まっすぐな花のような男の子達。そう、あの中に山田が入っていってしまうのが私たまらなくさみしかった。山田にはお友達なんてできなくていいのにと思ってた。ごめんね。ごめんなさい。塩の味がする液体が目からぼたぼたとたれてきていよいよ私は海に近づいているのだと思う。このままお湯の中に溶けていって浴槽いっぱい分の海になった私は夜になったら窓からそっと出ていってもう戻らない。なんちゃって。
やっぱり一番のばかは私だわと呟いて立ち上がれば私と一緒に海になりかけていたお湯は名残惜しそうにからだから離れていく。海ならぬ身の私は働かねばならない。

夜になって看板をしまいに外へ出ると山田が立っていたので見えないふりをして背中を向けると奴が慌てているのがなんとなくの気配でわかった。慣れてないの。今まで友だちがほとんどいなかった山田はこういう時どうすればいいのか圧倒的に経験値が少ないからわからないし、私は私でこんなもやもやとした気持ちには慣れていない。しばらくその場に立っていても山田が何も言わないので店に戻ろうとするといきなり腕をつかまれてなんというか非常に驚いた。ふつう名前を呼んでひきとめるものじゃないのこういう時って。
じろりと見上げると山田はほんの少しひるんだけれどそれでも私の腕を放さなかった。
ずいぶん苦しそうな顔をしている。きっと頭の中がとっ散らかってるんだろうなあ。

「昼間はびっくりしたでしょ」
「…ああ」
「まさにインド人もびっくり、なんちゃって、ふふ」
「なあ、おい、ナマエ、怒るぞ」
「うそ、ごめん、山田、怒らないで」
「…怒ってないよ」

山田の低い声は夜になって強まった海風にからめとられて途切れ途切れにしか聞こえない。あっというまに冷えたからだの中で山田につかまれている腕だけが熱かった。風にあおられてばたばたと音を立てている山田のターバンに手を伸ばすとそちらの腕までつかまれてもう身動きがとれない。なんなの。言いたいことがあるならさっさと言えばいいじゃんばか。私のこと好きになれないなら早くそう言って解放してよ。いい歳した女に私は海になりたいなんて世迷い事を言わせた責任をとれ。もう自分で自分が何を考えているんだかわからない、頭の中がとっ散らかっているのは私の方だ。口を開けば山田を罵倒する言葉ばかり出てきそうなので唇を噛んで下を向いていると山田が私の名前を呼んで腕をゆらゆらと揺らした。ああもう本当に頑張れ私。歯を食いしばるのだ。

「なによう、言いたいことあるなら早く言ってよぉ」

だめだった。歯を食いしばったのに口から出たのは情けなく震えた言葉で、私が弱気なのを見たとたんに不安そうだった山田は得意げに笑ってふふんと鼻を鳴らした。そう、こいつはこういう奴だよちくしょうめ。ばーかばーか。ばかインド人。

「いや、まさかナマエが俺のことを好きだとはな!いつも俺が嫌いなの知ってて変なダジャレばっかり言ってくるし俺の店のしらすカレーも食わず嫌いで食わないし隙さえあれば後ろから膝がかっくんてなるやつはやってくるしすぐにターバンほどこうとするし、およそ年頃の女性らしい振る舞いが見当たらなかったお前が!まさか俺を好きだなんてな!」

ひとつひとつ確認を取るように言い募る山田は今、小学生の頃クラスに一人はいたむかつくくそがきの顔をしている。おい山田ぁ、こいつお前のこと好きなんだってよーとか言うタイプの男子。ただここで問題なのはその「好きなんだってよ」と言っているのも言われているのも山田だということである。なんだこの状況。わかってんのか山田。殴りたい。山田が泣いて謝っても許さないでぼこぼこに殴りたい。初めて会った時はクールな大人ぶってたくせに。友だちいなかったくせに。俺青春とかそういう暑苦しいの嫌いなんだよねーとか負け惜しみ言ってたくせに。ほんとはさみしかったくせに。でも私は山田を殴れない。恋の前に人は皆無力。それに山田はさっきから私の腕を放そうとしない。手がかすかに震えている。褐色の肌が赤らんでいる。そんな彼を私はとてもとても好きだと思う。

「山田ぁ…」
「な、なんだよ」
「好き」
「あ、ああ、うん」

石のように固まってしまった山田に私はひたすら好きだ好きだと言い続けた。好き。好き。好きだよ。言っているうちに何でか泣けてきてしまって、涙がぼとぼと零れる。山田は顔を真っ青にして私から手を放し、頭をなでようとしてやめたり肩に手を置こうとして引っ込めたり色々したあとにポケットからハンカチを出して貸してくれた。それが嬉しくってまた泣けて、さんざん涙をふいたあとにハンカチで鼻をかんでやった。それを見た山田は何か言いたげな顔をしていたが何も言わなかった。今までだったら考えられないような醜態を山田の前で晒しまくった私は妙にすっきりとしてしまって晴れ晴れとした気分。急にお腹がすいてきたので山田にハンカチのお礼を言って店に戻ろうとすると山田はちょっと待てと叫んだ。

「なんだよ山田ぁ」
「俺の返事は!…その、聞かなくていいのか」
「もういいよ気が済んだしお腹すいたし」
「お前、俺がどれだけの覚悟でここに来たか」
「…わたし山田がつくったしらすカレー食べたい」

そう言うと山田は途端に嬉しそうな顔をした。じゃあ今から俺の店に行くぞ、とごく自然な感じを装いわたしの手を取って歩き始める。その横顔は緊張とか安堵とか喜びだとか恥ずかしさ、もう色々な感情が現れては消えを繰り返し繰り返し。変な顔。笑ってしまう。山田、あんたってほんとに何ていうか山田だよね。好きだよ。