今日は雲がない。
というか昨日もなかった。一昨日もなかった。ここ一週間くらいなかった。
あるのはアホのような日差しと地面からたちのぼるむっとした熱気とはりついたような黒い影と、
この、私の隣で年甲斐もなく腹を見せて転がっている女だけだ。

「見苦しい、目が腐る」

青白く冷えた腹をひっぱたいて私の上着を投げつけると女はかすかに呻いて上着の匂いを嗅いでいる。
「たちばなくんのあせのにおいがする」などと言っている。すこぶる気持ち悪い。
頭に来たので上着を取り返そうと引っ張ると女までずるずるとひきずられてきて私の膝の上に乗った。暑苦しい。
私はしとやかな女らしい女が好きだ。気の強い女や気取りのない女もまあ好きだ。まあ、女ならたいがい好きだ。
だが私の膝の上でゆるみきった顔を隠そうともしないこの女だけは別だ。そもそもこれを女だと認めたくない。
少しは女らしくしてみろとつぶやくと何が不満なのか女は口をとがらせて私から離れた。
そして部屋の中でおそらく一番涼しいであろう机の影までずるずると這っていきこちらをちらりと見た。

「そういうこと言うのは文次郎だけでじゅうぶんだよ」

何故ここで文次郎が出てくるのか理解に苦しむ。
そもそも急に膝が軽くなって体の重心が一瞬不安定になりその結果やや不愉快な気分になった上にどうして文次郎が呼び捨てで私のことは名字にくんづけなのかそしてどうして今日はこんなに暑いのだ腹が立つ苛々する憤懣やるかたないとはこのことかそうこうしている内にもちゃっかり持って行った上着を女が嬉しそうに嗅いでいる。
髪の生え際にたまっていた汗がつうと落ちたのをきっかけに私が立ち上がると不穏な空気を感じたのか暑さなど感じさせぬ軽やかな動きで女は庭へ逃げた。あれか。文次郎の所にでも逃げ込むつもりか。

「ナマエ」

我ながら驚くほどに不機嫌な声で名前を呼ぶと女は途端に嬉しそうな顔をして振り向いた。照る日を受けて瞳が、髪が、光っている。
「外から見ると部屋の中真っ暗!立花くん幽霊みたい!」などと失礼極まりない発言をして何がおかしいのかけらけらと笑っている女のまわりで空気がゆらめいている。
幽霊みたいなのはどっちだクソが。呆れて言葉も出ない私の沈黙をどうとったのかは知らないが女は今度一緒に海に行こうと叫んでくるくるとまわった。

「海は青くてきれいだよ、大きいよ。っていうか世界ってきれいだよね、あの、私あれなんだよね、立花くんが隣にいるとなんでもきれいに見えちゃうんだあ」
「バカか」

こいつには恥という概念がないのかこの痴れ者めが。アホ女に対する怒りが限界まで達したのを感じた私はどかどかと音を立てて廊下に出て手招きをした。
素直に駆け寄ってきた女の顔を両手で挟んでタコ顔の刑に処してまじまじと見下ろす。
別に絶世の美女というわけでもない、趣味は立花くんの匂いを嗅ぐことというかもはや立花くんが私の趣味ですと公言してはばからない変態であるこんな女。
眉間に皺をよせて女の顔をまじまじと見ていると何やら勘違いした女は目を閉じて口をとがらせ更なるタコ顔に進化した。
あまりに酷いその顔に哀れみにも近い感情を抱いて女の顔を挟んでいた手の力をゆるめると女はふと真顔に戻り「あ、やばい」とつぶやいた。
一体何がやばいのかと疑問に思う間もなく女の右の鼻の穴から勢い良く血が流れ出たのを見て私は頭の血管が数本切れたような気がした。
美しい女も可愛い女もしとやかな女も他にいくらでもいるのにどうして何故よりによってこんな珍獣のことが私は好きなのだ。
世の中はあまりに理不尽だ。こんなド変態を好きになった自分の感性を疑う。そもそもこいつを好きになったせいで他のどんな女を見ても退屈でたまらない。
青い血管の走る胸元に垂れた鼻血を見ていよいよ立ち眩みに近い症状を覚えた私はその場で倒れそうになりすがるようにして女を抱きしめた。
もうどうしようもないほど幸せそうな顔をしたナマエは猫の様に私にすり寄り、「…たちばなくんってへんたいだね」と言った。

ド畜生。