遠くで海鳴りが聞こえます。空はどんよりとした灰色で、厚い雲が立ち込めていました。ナマエは潮風になびく髪をおさえながら黒松の幹にもたれかかり、水平線の向こうをじっと睨んでいます。

「…また嵐がきそう」

そう呟いて家へ戻ろうとした時、ふと浜辺に誰か座っているのが目に入りました。一週間ほど前からナマエの住む村に滞在している旅人です。若いわりに世慣れた感じのする彼はあっという間に村人とも打ち解け、まるで昔からこの村に住んでいるかのようにくつろいだ様子で過ごしています。そんな彼のことを少し怪しんでいたナマエはあまり彼に関わらないようにしていましたが、このときばかりは自然と彼に近づいていきました。もうじき嵐が来るという事を教えてやらなければと思ったのです。

ナマエはじゃりじゃりと足音を立てながら、波打ち際に座ってぼんやりとしている旅人のところへ近づいて行きました。旅人は近づいてくるナマエに気がつくと、人なつこい笑顔を浮かべて会釈しました。
その笑顔を見てナマエは、「ああ、この笑顔だ」と思いました。
最初のうちこそ見慣れぬ旅人を怪しんでいた村の人たちも、この笑顔を見て皆警戒心をといたのです。それほどにこの旅人の笑顔は親しみやすい、またどこか気の抜けてしまうような笑顔でした。

「もうじき嵐がきますよ」
「そのようですね。…風がどんどん強くなってきた」

やっぱりこの人は怪しい、とナマエは思いました。嵐がくることを知っていてこんな浜辺にひとりでいるなんて。高波がやってきたらさらわれてしまうかもしれないのに。

「分かってらっしゃるならいいんです。…じゃあ、私は家へ戻ります」
「あの………ナマエさん」
「…はい」
「この村を出たいとは思わないんですか?」

あまりに唐突な問いかけに、思わずナマエは目を丸くしました。たとえナマエが村を出たいと思ったことがあったとして、それが一体なんだというのでしょう。

「思いませんよ」
「本当に?」
「…しょっちゅう嵐は来るし、野菜は育ちにくいですけど…生まれ育った村ですから愛着もありますし、それに…」
「それに…?」
「今自分がいるところに満足出来ない奴はどこへ行っても満足なんて出来ないって、昔じいちゃんが」
「…なるほど」

そう呟くと旅人は再び海の方へ向き直り、もうナマエの方を見ようとはしませんでした。変な人だなあと首を傾げながら家へ戻ったナマエは、一人で夕食を食べながら旅人の言った言葉を頭の中で繰り返し考えました。
何年か前に流行り病で家族を失ってしまったナマエですから、確かに出ようと思えばすぐにこの村を出られるのです。でも自分は村を出なかった。正確に言えば、出ようと考えつくことすらなかった。村の外にはどんな世界があるのだろう。海の向こうには一体何が…?
こう考える事はナマエにとって、とても刺激的な事のように感じられましたが、すぐに思い直しました。
きっと少しは違うでしょう。住んでる人が違うのだから。でもどこに行ったって空も海もおんなじで、何よりも私の世界の中心にいるのは私なのだから、大して変わりはないんじゃないかと、そうナマエは考えたのです。
なんとか自分の納得のいく答を出せたナマエは眠りにつこうとしましたが、近づいてくる嵐と旅人の言った言葉、ガタガタと揺れる家の音に邪魔されてちっとも眠れません。

「少しだけ…」

まるで誰かに対する言い訳のような言葉を呟いて、ナマエは外へ出ました。眠れない夜はいつもこうして外に出て、海をぼうっと眺めるのがナマエの習慣なのです。
外へ一歩出た途端ナマエを家に押し戻すように強い風が吹きつけ、少しひるみましたが構わず足を進めます。もう夏が近いこともあり、風も時折降ってくる雨すらもあたたかでした。

夢の中にいるようなおぼつかない足取りで海へとたどり着くと、波は夕方にナマエがもたれていた黒松のところまで打ち寄せてきていました。何度もこちらへ打ち寄せ、その度に白く泡立ち空中に飛沫を散らす水に誘われてナマエが足を踏み出そうとした時、ナマエの肩をつかんで強く引き戻す人がありました。
我に返ったナマエが振り返って見たのは、いつもとは違う、静かな表情をした旅人でした。旅人の長い黒髪は風にあおられ翻り、その瞳は夜を飲み込んだような色をしています。着ている服もいつもとは違った、暗い夜の色でした。

「夜の海は危ないよ」
「…はい」
「身投げでもするのかと思った」
「…外の世界は綺麗ですか?」

ナマエがそう問いかけると、旅人は一瞬面食らった顔をしましたが、やがて黙って思案し始めました。ナマエは旅人の瞳を見つめながら静かに答えを待ちます。旅人の瞳の中には深い深い夜があり、更にその奥では青々とした炎が燃えていました。きっと旅人は、今までにその瞳に色々な光景を映してきたのでしょう。ナマエはその瞳の色だけでもう答えが分かったような気がしました。

「…綺麗な事ばかりではないけれど」
「はい」
「やっぱり綺麗だと思うよ。そう思いたい、おれは」

そう言って笑った旅人の目は、何か眩しいものを見た時のように細められていました。ナマエもつられて微笑むと、旅人はナマエの顔をじっと見て、問いかけました。

「この村を出たいとは思いませんか?」
「出たいです。私は、外の世界を見てみたい」
「…おれと一緒に来ますか」

そうして差し出された手を、ナマエは迷うことなく掴みました。それからすぐに旅人の手を離し、隣を歩き始めました。こういった暗い道を歩くときは誰かと手を繋いでいると、かえって危ないことをナマエは良く知っていたのです。旅人はそんなナマエをいかにも好ましげに眺め、いつものような人なつこい笑みを浮かべました。

「今日からナマエさんは、尾浜ナマエと名乗ればいい。夫婦だと言えば大抵どこへ行っても怪しまれないからね」
「尾浜…?」
「ああ、おれの名前は尾浜勘右衛門といいます。よろしくね」

初めて村にやってきた時に名乗った名前とはまるきり違う名前を名乗った旅人は悪びれた様子もなく、屈託なく笑っています。やっぱり最初に名乗ったのは偽名だったんだ、とナマエは心の中でこっそり思いました。だってあの名前はこの人に馴染んでいなかったもの。尾浜勘右衛門…この人の本当の名前。
自分が尾浜の姓を名乗る事については、ナマエに異論はありませんでした。もとよりナマエに名字などなかったのです。
それきり二人は会話をする事もなく、深い夜の中へと消えていきました。強い風雨にさえぎられ、二人がどこへ行ったのかを見たものは誰もいませんでした。
たとえいたとしても、夜が明けると同時に始まった近隣の城同士の戦に紛れて二人の事など忘れてしまったことでしょう。