ひんやりとした静かな夜、私は裏山へとひとりで来ていた。
ついさっきまで雨が降っていた。水気を含んだ空気を吸い込むと、どこからか甘い匂いがしてきていて、どこかで嗅いだ事のある匂いだと思った。はたして何の匂いだったか。考えながら木から木へと飛び移る。夜になるとこうして裏山へ来て、夜空を見ながらひとりゆっくりと物思いに耽る。それが近ごろの私の習わしとなっている。ひとりで物思いに耽る私、ちょっとかっこいい。そんな風な気持ちがあるのは否定はしない。そういうお年頃なのだ。耽っている物思いの内容だって明日の朝食の献立についてだったり最近ちょっと太っちゃったよなあとかそんな程度だ。
 やがていつも座っている、他の木よりもひときわ背の高い木へたどり着くと腰を下ろした。風がざあっと吹いて気持ちがいい。風に追いやられて雨雲もどこかへ消えたようで、空では月が幾筋もの光を放っていた。ふと下を見るといくつも水たまりができていて、すべての水たまりに月が反射し、あたりは乳白色の光で薄明るかった。その光景に見とれていると、この場では見たくなかったものを私の目が一瞬捉えた。
 その水たまりに己の姿をうつして様々なポーズをとっている…同い年の平滝夜叉丸である。うわあ嫌だなあ何だよもう。私は露骨に顔を歪めて滝夜叉丸を見下ろした。別に滝夜叉丸が嫌いな訳ではない。ただちょっとここでは会いたくなかっただけである。心の準備とか必要だし。
奴はそんな私の複雑な気持ちをよそに相変わらず水たまりに己の姿をうつしてみとれている。幸せなやつだ。そして何を思ったのか奴はすっと右足のつま先を立てると、そこを軸にして華麗な回転を始めた。一回、二回、三回…よくあんなに回れるものだと感心して見ていると四回目の回転の時に奴と目が合ってしまった。そしてそのまま五回、六回と一回転するごとに滝夜叉丸は私と目を合わせてくる。…止まればいいじゃないか。目が合ったんだから。そしてやっとくるくるするのをやめたかと思えば今度は私に向かって降りてこいだのこっちへ来いだのと呼ばわっている。そのまま無視しようと思ったがあとあと面倒くさそうなので私は渋々木から降りて滝夜叉丸のところへ行った。

「何か用」
「それはこちらの台詞だ。あんな高い木の上から私を見下ろして…いや、言わずとも分かる。この私の美しさに見惚れていたのだろう。ナマエ、お前は喜八郎並によくわからん奴だと思っていたがこの私の素晴らしさが分かるとはなかなか将来有望だな」
「…全身複雑骨折とかすればいいのに」
「ん?何だ?よく聞こえなかったが照れなくていいんだぞ?いや、ちょっと待て…照れるということはナマエ!お前もしや私のことが好きなのか…?そう考えればお前の行動の辻褄が合う…」
「もう帰っていいかな」
「ちょっちょっと待て!」


ぐだぐだと腹立たしいことを並べ立てる滝夜叉丸につきあうのに飽きた私は、今日は木の上で物思いに耽るのは諦めて早々に帰ろうとした。ところがアホ夜叉丸が私の手首をつかんでそれを阻んだ。何はともあれ一発殴ったろうと思い振り返ったがその瞬間、今日山の中でずっとしていたあの甘い匂いが滝夜叉丸からしてきたのだ。いいにおい。私はずいっと滝夜叉丸に近づくと奴の髪のにおいを嗅いだ。

「何の匂い?」
「な、何をする…!」

さっきまで私を帰すまいとしていた滝夜叉丸は私が近づいた途端にあわてて私の手を放した。そして自分の着物の襟元をかきあわせて、それ以上近づくと人を呼ぶからなとか言いながら顔を赤らめている。これじゃあ私が変質者みたいではないか。失礼な。でもまあ、確かにちょっと軽率な行動だったかもしれない。

「いや、滝夜叉丸の髪の毛からなんか甘いにおいがしたから…」
「私の髪…?ああ、さっきまで梔子が沢山咲いている場所にいたからな…」
「ずっとここでポーズとってたんじゃないんだ?」

そう言って何気なくさっきまでつかまれていた手首を見るとかすかに血が付いているのに気がついた。え、こいつにつかまれて出血…?いやそんな馬鹿な。

滝夜叉丸が手を怪我しているんだ。滝夜叉丸の手をつかむとまた奴は赤面してきゃあきゃあ騒いだが無視してじっと見る。戦輪によって出来た傷だろうか、意外としっかりして骨張っている指にはいくつもの小さい古傷がある。そしてひとさし指にはまだ新しい傷があり、そこから血が滲んできているのだった。そんなに大した傷ではなかったことに内心ほっとした。

「…手、怪我してるじゃん、滝夜叉丸」
「気のせいだろう」
「血出てるよ。…戦輪の練習してたの?」
「…輪子とデートしていただけだ」

その時急に風向きが変わり、今まででいちばん強く濃い甘い匂いが私たちを包んだ。そういえばさっき、滝夜叉丸は梔子の咲いている場所にいたと言っていた。この匂いが梔子のにおいだとしたら。私は滝夜叉丸の手を持ったまま甘い風の吹いてくる方へと進んでいった。木立を抜け低い木の枝をくぐり、草むらをかきわけてしばらく行くと少し拓けた場所へ出た。まわりには梔子がかたまって咲いている。その中の一本の木に、戦輪によるであろう傷がいくつもついた的がかかっていた。

「ここで練習してたの?」
「今日だけたまたまだ。元々素晴らしい才能を持った私だが更に完璧になるべくちょっと気まぐれで練習をしていたところへナマエが近づいてくるのが見えたからだな…」

髪の毛に梔子の匂いがつく程ここにいたのだからかなりの時間練習をしていたのだろう。そういえばどこかで嗅いだ匂いだとは思っていたが、いつも滝夜叉丸からしていたのだ。このあまやかで涼しげな梔子の花の匂い。きっと毎晩ひとりでこっそり練習をしていたんだろうな。いつも自慢ばかりで腹が立つ、というだけの奴だったのに、なんだかまるっきり印象が変わってしまった。いまだに手を繋いだままの滝夜叉丸を見ると、居心地が悪そうに顔をしかめて目を伏せている。手を繋いでいるのが嫌なのかとも思ったがいつの間にかしっかりと手は握り返されていた。

こいつのこと好きになったら、面倒くさそうだよなあ。でももう、無理かも。 いつもとは全然違う小さな声で、帰るぞ、と呟いてこちらをにらむように見る滝夜叉丸の頬は赤く染まっている。多分だけれど、私の頬も、赤い。