水の音がする。


水の中をゆっくり広がる桃色の煙の向こう側で笑っている人がぼんやりと見える。笑うたびにその人の口から吐き出される泡が視界を遮る。
私は目の前にいるその人へ必死に手を伸ばすが、手が届く前に私の体は浮き上がり、どんどん水面へ近付いていく。
薄暗い水色に染まった水底で、その人は私を見上げながらずっと笑っていた。

いつもここで目が覚める。
明け方の薄い光の中で目を開くと、部屋の中がぐにゃぐにゃと輪郭を失って揺れている。どうやら私は眠りながら泣いていたみたいだ。
タオルケットを蹴飛ばして起き上がり、窓を開けると桃色の空から柔らかい風が吹いてきた。目を閉じてじっとしていると目尻と濡れた頬がひんやりとする。

このところ同じ夢ばかり見る。一体あの人は誰なんだろう。
顔もよくわからないあの人のことを考えると心臓が痛くなって息が苦しい。私はあの人に、会いたい。夢を見るたびにその思いは強くなる。
たとえば薄暮の道ばたで。あるいはたまたま訪れた隣町の図書館で。蝉の声が降るような昼下がり、百日紅の咲く路地で。

まだ見ぬあの人との運命的な出会いを空想していると、自分がなんだかとても特別なものになったような気がして気持ちがいい。
私は甘い夢に沈みながら、もう一度タオルケットにくるまって体をまるくした。

そのままどれくらい経ったのか、夢も見ずに熟睡していた私を現実へ引き戻したのは、少し呆れたような母の声。
眠りから覚めない耳に断片的に届く、三郎だの早く起きなさいだのいう言葉で、今日は三郎とプールに行く約束をしていたことを思い出し一気に目が覚める。
慌てて着替えて一階へ降りていくと、玄関の上がり框に座って麦茶を飲んでいる三郎と目があった。

「ナマエ遅い。暑い。麦茶うまい」
「ごめんごめん。夢の続き見ようとしてたら寝坊した」
「ふーん…どうせやらしい夢でも見てたんだろう」
「ふふん、ちょっとね」

意味ありげな笑みで三郎の横をすりぬけて外へ出ると、あまりの暑さにくらりとした。
なんて日ざしだろう。呼吸をするたびに熱された空気が肺に入ってきて苦しい。早く水の中に入りたい。
重たい足取りでプールの方へ歩き出すと、しばらく経ってから三郎が追いついてきた。

「ほら、帽子ぐらいかぶってけっておばさんが」
「ありがと」

三郎は私に麦わら帽子をかぶせてから、心底うっとうしそうな目で太陽を見た。
私も三郎も外に出てからまだいくらも経っていないのに、体のいたるところから汗が噴き出している。
三郎の首すじを流れる汗を横目に見ながら、私はまた夢のことを考えていた。少し集中すればいつでも頭の中で水の音が聞こえ出す。
これはきっとあの人の吐き出した泡が水面へ上っていく音なんだろう。仄暗い水の中で、私とあの人だけの幸せな世界。

「で?どんな夢だったんだ?」

私が何を考えているのか見透かしたかのようなタイミングで三郎が言葉を放ってきて、少しむっとする。

「…水の中で笑ってる人と見つめ合ってる夢」
「それはホラーだな。今度雷蔵たちと集まって百物語やる時に話せばいいんじゃないか」
「わかってないなあ。ホラーじゃないの!もっとロマンチックな夢なんだから」
「ロマンねえ…」
「その人が運命の人じゃないかと思うんだけど」

手を組んでうっとりとした顔をしていると三郎は意地悪な顔をして笑って、「そんなんだからナマエは友達が少ないんだ」と失礼なことを言った。
友達がみんないなくなったって、運命の人ひとりがいてくれればいいんだと言おうとして三郎の顔を見ると、ふと頭の中に響く水の音が大きくなった。
さっきまで聞こえていた蝉の声も全く聞こえず、水の音だけしか聞こえない。
しまいには周りの建物の輪郭が水の中にあるみたいに揺らめきだし、その中で見る三郎の笑顔は夢の中のあの人によく似ていた。