今日は昨日の続きで明日は今日の続き、今この瞬間はさっきの続きで、でもこうしている間にどんどん時間は流れていってしまって、どうすればいいのか分からなくなって苦しくて苦しくて、窒息寸前の金魚みたいな気分。

一気にこうまくしたてると、私の目の前に座っていた雷蔵は目をぱちくりとさせて、「そう考えると時間って随分目まぐるしいものだね」と言って笑いました。その笑顔を見てほっとした私は大きく深呼吸をしました。
私には、よくこうしてとりとめもない事を考えては不安になってしまう変な癖があります。そしてその度にこうして雷蔵に話しては一息つくのです。今こうして私が呼吸出来ているのはひとえに雷蔵のおかげと言っても過言ではありません。
雷蔵は不思議な人です。私の話を怒るでもなく馬鹿にするでもなく、そのまま受け止めていつもゆらゆらと笑っています。私が金魚だとしたら、雷蔵は隣で揺れている水草みたいな。
そんな事を思いながらじっと黙っている私を不思議そうに見る雷蔵は首を傾げて私の額に手のひらをあてました。そしてひとりごとのようにして、よし、熱はないな、なんて言うその手のひらはとても熱くて心地が良いです。

「ねえ雷蔵」
「ん?」
「私、馬鹿でごめん」
「…僕はナマエのこと馬鹿だと思わないけど」

どうして彼はこんなに優しいのでしょう。こうして一緒にいて、私は雷蔵に何も返せていない気がします。それはとても恐ろしいことです。かといって私は雷蔵に対して何か返せるような立場でもないのです。私たちはただの友達だから。
私はもっと雷蔵にわがままを言ってほしいし、私が雷蔵のことを大切な人として扱って、優しくすることを許してほしいと思います。でも彼はそんな私の気持ちをいつもするりとかわしてしまうのです。そばにいるともどかしくて苦しい、水にうつる月みたいな人です。

ある日の夜中のことでした。風を求めて部屋の窓をあけると、私の家の前に雷蔵が立っていたのです。驚いて外へ出ると、雷蔵はうっすらと笑って私を散歩に誘い、そして返事も待たず歩き出しました。こんな事は今までではありえなかった事です。きっと何かあったのです。悲しいことや苦しいことがあったのです。涼しい風の吹く、星と月がきれいな夜でした。
雷蔵はぐんぐんと歩いていきます。私はその後を小走りで追います。置いて行かれないように地面だけを見つめながら足を速めると、急に立ち止まった雷蔵の背中にぶつかりました。
顔を上げると、いつの間にか私たちは近所を流れる大きな川の土手に来ていました。薄いTシャツごしに感じる雷蔵の背中からはお風呂上がりのにおいがします。
私は雷蔵が何を考えているのかわからなくて、じっと川の流れを見ていました。

「月の道をね」
「え?」
「月の光が水に反射して、月へ続く道みたいになってるのって、わかる?」
「なんとなく…」
「それを見たくてここまで来てみたけど、やっぱり海とか湖じゃないと無理なのかな」

そう言ってうつむいた雷蔵の横顔があまりにきれいで悲しくて、私は思わず言いました。

「行こう、雷蔵。川沿いに歩いて、海まで」

私の言葉を聞いた雷蔵はとても驚いた顔をして、その後少し悩んでいましたが、やがて顔を上げて決然と頷きました。夜が明けるまでまだいくらか時間はあります。私たちは急ぎました。眠さも疲れも心細さも、そんなつまらないものは全部忘れて、ただただ歩きました。私たちを後押しするように強い風が吹き、草がざわめきます。空の星は一斉に瞬きます。空の中で月はやわらかくとろりとした光を私たちに投げかけます。どこかうっとりとした気持ちになりながら、私の足だけは休む事なく動いています。
そうしてずいぶん歩いた頃、空の端が白んできました。朝が近いのです。

「ナマエ、急ごう!」

雷蔵は私の手をとると、走り出しました。私と雷蔵が呼吸をする音と、踏みつけられた草の音だけが響きます。雷蔵の手は少し汗ばんでいて、熱くて、とても力強くて、私は目を閉じました。このまま夜が明けたって、海に着いたって、いつまでもこの手にひかれて走っていたいと思ったのです。

それから間もなく、私たちの努力もむなしく海に着く前に夜が明け、世界に光が溢れました。町が目覚めるまでにはまだ少しありますが、とにかくもう月の道を見る事は出来ないのです。どちらからともなく立ち止まった私たちは、手をつないだまま日が昇るのをじっと見ていました。

「私、走るの遅くてごめん、雷蔵」
「…もしも」
「うん」
「もしも間に合っていたら…もし月の道を見る事が出来たら、僕はその道を行こうと思ってた。ナマエに一緒に来てもらおうと思ってた」
「…うん」
「だから、間に合わなくて良かったかも」

悲しそうに笑って手を離そうとする雷蔵の腕をつかんで私は叫びました。

「私はね、雷蔵がこうして手をひいてくれるなら、このままどこにだって一緒に行きたいって思ったよ!」

私があまりに大きな声で叫んだために、雷蔵は目を丸くして驚いています。向こうから歩いてきた、犬の散歩をしているおじいさんも驚いています。おじいさんは私たちを見て、元気だねえ、と言ってにこにこしながら行ってしまいました。じわじわと顔が熱くなってくるのがわかります。正面の雷蔵の顔も真っ赤でした。
でもしばらくしてから雷蔵は私の手を握り返して小さな声でありがとう、と言ってくれました。

「雷蔵、帰ろう」
「うん」
「…今日学校どうしようね」
「一緒にさぼっちゃおう」
「うん!…月の道はどうしよっか」
「また今度でいいよ、それは」
「そっか、うん、そうだね」

つないだ手をぶらぶらと揺らしながら私たちはのんびりと歩きます。急ぐ必要はまるでないのです。月の道は、またいつか、そのうちに。