それはある夕暮れ、私がいつものように家の近所にある神社の池のほとりに亀のえさをもって佇んでいたときの事であった。色々な人がえさをやるものだからすっかり巨大化した鯉の集団と、私の本来の目的である亀、おこぼれを狙って集まってきた白い鳩の大群。そんなものたちに囲まれてぼうっと池を眺めていると、人懐っこそうな顔をした男がどこからともなくペタペタとサンダル履きで登場し、池の周りを囲む手すりに肘をかけて話しかけてきたのだ。

「煙草、いいですか?」
「…どうぞ」

ここは亀にえさをやる場所だが喫煙所でもある。私自身は現在煙草値上げのあおりを受けて禁煙中であるが、副流煙を吸うことについてはやぶさかでない。男はにっこりと笑うとおもむろに煙草を吸い始めた。私はその様子をちらちらと横目で見つつ、素知らぬ顔で亀にえさをやっていた。亀はのろい。何せのろいものであるからして、鯉や鳩に奪われないように絶妙な場所にえさを落とすのが重要なのだ。のろい亀の中でも特にのろい亀にえさをやる事に集中していると、ふと視線を感じた。顔を上げると、先程の男が腕組みをして、興味しんしんといった眼差しを私と亀へ向けているのだった。

「…やってみます?」
「えっ、いいんですか?…つってもこれだけ見てたらそう言わざるを得ないですよね。すみません」

男は苦笑いを浮かべながらも私から亀のえさを受け取り、池で待ち構えている亀たちにひとつずつ投げ始めた。ところがなかなかうまくいかない。巨大鯉や目つきの鋭い白鳩たちに次々とえさを奪われてしまうのだ。可哀想な亀。だがそうなってしまうのも仕方のない事である。今はほぼ百発百中で亀のもとへえさを落とせる私でさえ、こうなるまでには相当の努力を必要としたのだから。私は誇らしい気持ちでしばらく男が亀にえさをやろうとするのを眺めていたが、この男は五個ほどのえさを鯉と鳩に奪われただけですぐにコツを掴んだらしく、次々と亀たちのもとへ的確にえさを落とし始めたのだ。何という事であろう。私は自身のえさコントロール能力に対する誇りが粉々に打ち砕かれるのを感じていた。男は私の嫉妬に満ちた視線をどう勘違いしたのか嬉しそうな笑顔を向けてくる。

「これ、面白いですね。そろそろ無くなっちゃいそうなんで新しいの買ってきますね」
「…ええ」

いそいそと新しい亀のえさを買いに行く男の背中が憎い。私はこれでもかというほど奥歯を噛み締めながら偽りの笑顔を浮かべて立っていた。男は新しく買った亀のえさ袋を持って走ってくる。転べ。今だ。それ転べ。私の呪いなどものともせずこちらへ無事にたどり着いた男は、私にも亀のえさをいくつか渡してきた。負けられない、絶対に。私は鼻息荒く池へ向き直った。ところが当の亀が見当たらない。どうやら亀たちはお腹がいっぱいになったらしく池の奥深くへ帰っていってしまったようであった。がっくりと肩を落とす私とは対照的に男は相変わらず楽しそうな笑顔を浮かべていた。

「亀帰っちゃいましたね。…じゃあ今度はお前たちにやろう。そらっ」

男はえさが食べられなくて苛々をつのらせ、びちびちとしていた鯉たちにえさをあげ始めた。ならばと私は十数羽で固まり、ふくれながらこちらを見つめていた鳩たちにえさをあげることに決め、あたりへえさを撒いた。そしてあらかたえさをやり終わり、お互いの袋が空になった時、再び男が話しかけてきた。

「いやぁ…今日は思いがけず楽しい時間が過ごせたなあ。…よくここへは来るんですか?」
「ええ、まあ、ちょっと疲れた時なんかに来ます」
「ここいいですよねー。俺もゲームやり過ぎて目が疲れた時にたまに来るんですけど、亀にえさやってる人は初めて見ました」
「そうですか…」
「はい。あ、俺尾浜っていいます。あなたは?」
「…ミョウジです」
「ミョウジさん。また今度会ったら一緒に亀にえさやりましょうね。今日は楽しかったです。じゃ!」

男…オハマさんは屈託のない笑顔でそう言うとぶんぶん手を振りながら帰っていった。オハマ。次会った時がお前の命日だ…。そう思いながら私はオハマさんの背中を睨みつけていたが、オハマさんが曲がり角を曲がる際にもう一度こちらを振り返り手を振ってきたので慌てて満面の笑みをつくって手を振り返した。…変な人だったな。今度会う時までにはもっとえさのコントロールが出来るようになっておこう。そう決めた私は池を橙色に染める太陽に背を向け、帰路についた。