穏やかな風がするりするりと吹いている。花のかおりがあたりにすきまなく満ち満ちて、ひんやりした仙桃がなった木が遠くまでつらなっている。ぼんやりあおい空には桃色の雲がたなびき、そこかしこに虹がかかっている。ゆったりたっぷりのんびり、ワーカホリック気味の上司でなくとも思わず歌い出したくなるような、ここはまさに桃源郷。そんな中にちんまりとたっている漢方薬局が今日の目的地だ。建物のまわりでもくもくと草を食んでいるうさぎたちを横目にいつものように引き戸をあけようとして、寸前で手をとめた。かわりに大きく息をすう。

「ごめんください」

よびかけてすぐに、はいはーいと気の抜けた声がして戸があき、ここの主がでてきた。

「いらっしゃいナマエちゃん」
「こんにちは白澤様」

人好きのする笑顔をうかべてむかえてくれた白澤様は全身がうっすらひかっているように見える。なにせ彼は中国の神獣だからほんとうにひかっているのかもしれないけれど、このことについては冷静な判断ができない立場なのでよくわからない。わたしは彼がすきなのだ。
平静をよそおってはいるけれどいつどんなときでも、彼はとても簡単にわたしを動揺させる。
白澤様はわたしの手をとって、歌うみたいに自然にかるく口説き文句をくちにする。今日もかわいいね、とか、これからデートしない?とか、よかったら今晩どう?とか。いつものことなのに彼の発することばのいちいちが嬉しくてくちのはじっこがむずむずとして、つながれたままの彼の手をぎゅううとにぎりしめると骨のみしみしという音がした。痛い痛いという悲鳴にはっとして手をはなすと、白澤様は涙をうかべて手の甲をさすっている。その顔に胸がつまってしまって、すこし赤くなっている手にふれようとしてやめた。できるかぎりわたしから白澤様にふれることはやめようと、勝手に自分の中できめごとをつくっている。でもそれが説明できなくて黙っていると、彼はすこし困ってしまったようだった。

「ご、ごめんね、さわられるのいやだった?」
「いいえ、まったく。でも、お仕事で来たのでなんというか、あんまり。うまく言えないんですけど、ごめんなさい」
「…なんかさ、ナマエちゃん最近あいつに似てきたかも」
「鬼灯様ですか?」
「やーめーてー僕といるときにあいつの名前ださないでー吐くー」
「ふふふふ」

笑いごとじゃないよもう、と疲れたような顔で言ってから白澤様はおえーっと吐く真似をした。きっと言葉につまったわたしを助けてくれようとして、空気を変えようとしてじぶんから言いだしたことなのにしょんぼりとしていて不憫だけれどいとおしい。謝って頭をなでて思うぞんぶん甘やかしたい気持ちになってしまう。でもがまん。わたしの職場の上司の鬼灯様と白澤様はとても仲が悪いので会うたびにけんかをする。わたしはそれがうらやましい。だれにでもやさしい白澤様は鬼灯様だけにはちがう顔をみせる。口は悪くなるし手も足もでる。ほんとうはそれだって彼のやさしさなのだとわたしは思っているけれど、きっとだれに言ってもあまり分かち合えないことだとわかっているし、むしろ分かち合いたくないとも思っている。仕事上の事務的なやりとりをいくつかすませたあとに白澤様は中国のおいしいお茶をだしてくれた。お茶のなかでゆっくりゆっくりひらいていく花をじっとみているわたしを白澤様がじっとみている。とてもしあわせな二重構造。すきすきすきすきすきです。思いながらじっと見返すとふんわりとした笑顔がおしみなくかえされた。わたしは白澤様の笑顔がなによりすきだ。すぐに近くにいってさわりたくなってしまう。でもがまんしなければ。悠久のときを生きている白澤様の目は黒くきらきらと光ってわたしを夢見心地にする。この瞳で太古の海を、シダの森を、無数に蠢く生命の始まりを見てきたのだ。その目にわたしはどう映っているのだろう?
ぴゅうと風がなって窓をがたがたと揺らした。音に気をとられた彼の横顔に問いかける。

「白澤様にはわたしってどうみえます?」
「わあ、唐突だね。…そうだな、責任感がつよくてまじめ。きりっとしてる。笑うとまた雰囲気がかわるし、すごく頭がいい。それになによりやさしい子。かな」
「なんてこと言うんですか」
「あれっ、だめだった?」
「白澤様なんて地獄におちちゃえ」
「ひどいな!でもどうして!?」
「てれます」
「なんで?本当のことだからいいじゃない」

本当のことだからいいなんてことはない。客観的にみてそれが嘘でも本当でも、そんなこと言われてしまったら、困るのだ。いや、もうかなり困っている。離れがたい。ひどい。聞くんじゃなかった。がまんがきかなくなってしまう。白澤様なんて地獄におちてずっとわたしのそばにいればいいのに。どんどん強くなる風が建物ぜんたいをがたがたがたがたと揺らして屋根がぴしぴしと悲鳴をあげた。にぎやかな外にくらべてわたしたちのいるここは静かだ。お茶をのみおわって湯のみをのぞくと、さっきまで優雅に踊っていた花はぺちゃりとつぶれて息絶えている。湯のみにへばりついて惨めな姿。今のわたしみたいだ。でもわたしはまだ大丈夫。ぎりぎりだけれどちゃんと踊れていると思う。だからぼろを出すまえにきちんと帰らなくてはいけない。両手をぎゅっと握って足に力をいれた。

「ごちそうさまでした。そろそろ失礼します」
「あれっ、もう帰っちゃうの?ゆっくりしていけばいいのに」
「じゅうぶんゆっくりさせていただきました」
「えー、残念…あっ、じゃあ送ってくよ!」
「お仕事中じゃないですか」
「いーのいーの。もうすぐ桃タローくん帰ってくるし」
「もう…」

言うが早いか、あっというまに店じまいをしてしまった白澤様は踊るように身支度をしながら、まだすわったままのわたしの横を通るときにふわりと頭をなでた。なんだかよくわからないけれどご機嫌なおして、とわたしの気持ちをなだめようとしてくれている。すぐにそうやってこども扱いするんだからなあと頭では一応思うけれど本当はちっともいやじゃない。たかだか千年くらいしか生きていないわたしなんて彼からしたら生まれたてみたいなものだろうし、実際わたしのここでのふるまいはひどくこどもっぽい。しかえしに彼がまだ頭につけたままだった三角巾をひっぱってやろうと、うしろから近づいてそっと肩に指をおいて、そのまま彼に抱きついた。今日はここががまんの限界だった。もう気持ちがあふれて心はぼろぼろでとりつくろえない。困った。さっきみたいに骨をいためつけられると思ったのかすこしだけ体をこわばらせていた白澤様は、じきに安心したらしく力を抜いて、わたしの手をそっとにぎった。

「…何かいやなことあった?それとも悩みがあるのかな」
「ないです」
「やっぱり今夜僕とあそびたくなった?」
「なってないもん」
「じゃあ…まぁいいや、なんでも嬉しい。最近ナマエちゃん冷たかったからさー嫌われちゃったのかと思って僕どきどきしちゃった」
「そんなことあるわけないじゃないですか」
「うんうん、ごめんね」

甘えてしまえ。白澤様の背中に顔をおしつけて息をすいこむと枯れた草のようなにおいがする。漢方薬のにおいだろうと思う。あたたかい。とてもとてもすきな彼に、わたしはこうしてふれられる。望めば夜をいっしょにすごすこともできるしすてきな言葉だっておしみなくもらえる。白澤様はわたしのことがすきだ。でも他のひとのこともすきだ。彼の言うすき、は神様のすきだから。だからわたしの思いはあらかじめかなってしまっている。そしてそのうえでこの気持ちが完全にかなうことはない。わたしは彼といると宙ぶらりんで、それでもそばにいられるのがうれしくて、とてもさみしい。白澤様をずるいとは思わない。彼とわたしでは成り立ちがちがいすぎて、そんな気持ちはちっとも役に立たない。だからがまんなんてしないで甘えてしまえ。きっとこのひとはどこまでも許してくれるだろう。わたしの胸のうちに広がるがらんどうは、そのぶん彼のやさしさでいっぱいにしてもらえばいい。白澤様はもそもそと身をよじってわたしを正面から抱きしめた。それが思いがけず強い力で、息がはあっと口からもれる。隅々まで満たされる感じがする。背のびをして首に手をまわすと慣れたようすでかがんでくれる彼の頬にじぶんの頬をすりよせて、いいにおいのする首元に顔をうめた。すきなひとにさわるのは素敵だ。全身の力がぬけてつまさきからどろどろに溶けてしまいそうになる。

「ねえナマエちゃん、そういうことされると帰したくなくなっちゃうよ」
「じゃあもう今帰ります」
「…さっきのやつ1コ追加だな、ちょっと意地悪、って」
「わたし、意地悪だしなさけないんです」
「知ってるよ。うん、知ってる。僕きみのことすきだから」
「わかってます。わたしも白澤様のことがすきだから。…ふふ」
「あはは!すごくうれしい、ありがとう」
「…わたし今日はあと書類だけ提出すればあがれるんです。だからのみに行きましょう」
「行く行く行く行くよ。どこがいい?衆合地獄がいい?」
「どこでもいいです。白澤様のおごりなら」
「そこは僕と一緒ならって言うとこじゃないのー?もちろんおごるけどさ」
「白澤様だーいすき」
「棒読みは傷つくからやだ!でも僕もナマエちゃんだいすきだよ」

すきすきすきすき。このひとがすきだ。底ぬけにやさしいところも、びっくりするくらい女のひとにだらしないところも、妓楼で何回ぼったくられてもこりないところも、お酒がだいすきなのに弱いところも、ぜんぶ。いつも会うたびにこのひとをあきらめようと思う。今日こそは今日こそはと、そうして日をつないでここまできてしまった。そんなことできるわけがないってわかっているのに、わたしは戦うことをやめられない。このひとがこの世界にいてくれるだけですっかり満足できたらいいのに。どうせ勝てないのだったらもうわたしは何百年か何千年かわからないけれど、いつかこの身が消えてしまうまで彼のそばにいてあなたがすきだと言い続けたい。消えるときは白澤様に見送られて、彼の記憶のなかに住まわせてほしい。何でも知っている知識の神様の頭のかたすみで、永遠に生き続けたい。それはうっとりするほどぜいたくなことだと思う。そして、できたらたまには、百年にいっぺんくらいはわたしのことを思い出してすこしだけ笑ってほしい。そんな光景を思い浮かべるとしあわせで胸がやぶけて叫びだしそうになる。でも、外に出て、強い風にあおられて飛んできた花びらに巻かれて白澤様が楽しそうにしているのをみたらどうしてだろう、ふいに泣きたくなってしまった。立ち止まったわたしを不思議そうにふりかえった彼は早くおいでと花の中から手をさしのべた。追いつこうとして走った足がふわふわとして地をふみしめている気がしない。今この瞬間彼の目の前で消えてしまえたらどんなにいいことだろう。白澤様は蓮の花のように笑っている。