水彩世界の終極より | ナノ



希釈した愛でも良いから


「温い! 次だっ」
 
 シンドリア王国にある銀蠍塔(ぎんかつとう)にある訓練場には朝早くから鍛錬に励む武官がいた。
 柄が折れた槍に刃の零れた剣が散らばるそこは負傷した武官で溢れており、取り囲むギャラリー、基、食客たちは騒然としていた。
 
「おーお、やってんなあ」
 
 窓から訓練場を覗く形でシャルルカンは呆気に取られている周囲、そして倒れている武官たちの数に小さく口笛を吹いた。
 武官に囲まれる形で立っているのはつい数日前にシンドリア王国に帰還を果たした“特殊部隊”総司令官と言う肩書を持ちながらもシンドバッドの実姉であるエイダで、驚くと同時に納得出来るのだ。目立つことはせず、専らは武官たちの教育に力を注いでいるエイダが赤蟹塔(せっかいとう)ではなく、銀蠍塔に居ることが不思議で仕方なかったが、実力は疑うまでもない。
 朝日に照らされたアメシスト色の髪がその場にそぐわない美しさを主張する。短く切り揃えられた髪であったが、国王と引けを取らぬ程に輝くのだ。初めて彼女を目にする食客も少なくはないだろうからこそ、この状況を理解出来ないに違いない。
 目深く被られた帽子からエイダの表情を知ることは出来なかったが、シャルルカンは勘を働かして今の状況を瞬時に察した。
 窓の柵に手を掛けて飛び越えると、訓練場へ足を運んだのだ。
 
「姉さん、おはよう。随分と早い朝だな」
 
 手に持っている得物を見つめているエイダに声を掛ける。視線だけがシャルルカンを捉えた気がした。
 
「……シャルルカンか。貴殿にしたら早い朝だろうな」
「またまたー。“貴殿”なんて言うから何時まで経っても姉さんは男に間違えられるんスからねー。美人なんだから、こう、笑顔で」
「阿呆が」
 
 一人の武官を呼び出して訓練用の得物を渡した後、エイダは銀蠍塔を後にするために歩き始める。
 その後ろ姿を何人が見送っただろう。一瞬にしてギャラリーは割れ、去ろうとするエイダを視線だけで見送るのだ。畏怖の念と困惑とが混ざった視線の意味が分からない訳ではなかった。あの様子では数十人と居る武官がエイダ一人で倒されたようなものであるし、正体を知らなければシャルルカンも驚くしかない光景であるのだ。ましてや、エイダはエイダで機嫌が悪く、シャルルカンがあの場を収めなければ怒声を上げて武官たちに叱咤していただろう。
 ごく自然な流れでエイダのすぐ後ろを歩くが、目深く被られた帽子で表情は読めないものの、歩く方角からも赤蟹塔へ向かっていることは一目瞭然であった。
 賭けに出てみるか。シャルルカンは一歩大きく踏み出してエイダの前に立った。そして、振り返って彼女を見るのだ。
 
「姉さん、食堂でなんか食おうぜ」
「私はこれから赤蟹塔へ向かい、武官たちの性根を叩き直す。私が不在の間に鍛錬を怠ったように見受けられるからな」
 
 暗にシャルルカンに対しても怒りの矛先が向けられている訳であるが、慣れたやり取りと言えばそれまでだ。確かに指揮官のエイダが不在の間は鍛錬が疎かになることもあるだろうけれど、鍛錬ばかりでは武官と言えど息抜きが出来ないと考えてしまう。
 
「(相変わらず武術のことになると熱いなー。仕事をサボる王の行動を知れば雷が落ちるんだろうけど)」
 
 武術に於いて少々真面目過ぎる所があるものの、シャルルカンにとってエイダの存在は大きかった。得意とする異国の武器を主に使用するエイダであるが、剣術の才も秀でているのだ。真っ向から勝負したことはないが、尊敬や対抗心があるのも事実。この王宮には様々な事柄に特化した異国の食客たちが居るが、刀を交えたいと思う相手の一人がエイダであるのだ。
 同じ八人将であるヤムライハから剣術バカと不名誉なあだ名を付けられることがあり、否定出来ない事実でもあったが、彼女を前にした時、シャルルカンはいつもの自分と違う気がしたのだ。
 エイダは一瞬だけ動きを止めた。その一瞬でどれだけよく動く頭が更に回転したのかシャルルカンには理解出来なかったが、早朝の腹ごしらえに行こうという誘いを断る気でいるはずだ。一般の武官たちの育成も勤めの内であると考えていることもあってか、エイダの言う“性根を叩き直す”ことが彼女の中で最優先される事柄であることが伺える。――最も、叩き直される側としては衝撃的な朝を迎える訳であるのだが。
 しかし、本来であればエイダは真っ先にら赤蟹塔へ向かっているはずだった。人だかりを嫌う目立ちたがり屋の王とはおおよそ正反対の性格をしているのにも関わらずだ。もはや気まぐれとしか言いようがない出来事だと考えた時、シャルルカンは思いとどまるのだ。
 
「なあ、姉さん」
 
 この場にジャーファルが居ればエイダへの呼び方に対して文句一つ飛んできただろう。地位にはあまり興味を示さないエイダは視線をシャルルカンに向けるだけだった。
 
「もしかして、最近嬉しいことでもあった?」
 
 よくよく考えれば、やはりエイダは真っ先に赤蟹塔へ向かうはずなのだ。それなのに銀蠍塔へ向かったことを考えると、元々向かう予定がなかったのではないかと推測することが出来る。散歩か気分転換のつもりで歩いている時に武官を見つけ、機嫌の良さから手合せをしたのだろう。結果が結果だっただけに怒りの矛先が向けられているだけで、本来ならエイダの機嫌は良かったはずなのだ。
 あくまでもシャルルカンの推測でしかなかったが、機嫌が良ければ全ての辻褄が合う。
エイダは顔を上げてシャルルカンを見つめた。帽子の下で鈍色の瞳がきらりと光ったように見えた。
 
「話なら俺でも聞けると思うけど」
 
 その言葉を紡いだ次の瞬間、エイダは声を上げて笑った。
 普段から笑うことがないと言い切ることは出来ないが、彼女の笑みは何かを裏付けるためのものに感じられていた。それ故に、素直に感情が表に出ている今はシャルルカンの勘が外れていなかったことを確信的なものに変えていたのだ。
 
「そうか、お前が気付く程に私は今の状況を楽しんでいたのだな」
 
 一頻り笑った後、エイダはそう締めくくった。言葉の真意は理解しかねるが、なんとなく、エイダが新しい“ナニカ”を見つけたのだと察することが出来る。
 
「食堂へ行くぞ、シャルルカン」
 
 ほらみろ。やっぱり機嫌が良い。
 エイダは当初の目的には目もくれず食堂への道を歩き始めた。一瞬遅れを取ったものの再びその後ろをついて歩くシャルルカンは嬉しそうな横顔を見て思うのだ。
ただ一つ腑に落ちない点を挙げるとするならば、エイダを喜ばせるその原因が自分の知らない得体のしれないものであるということだ。
 先程とは打って変わり饒舌に話始めるエイダの言葉に相槌を打ちながら、シャルルカンはやるせない思いと小さな舌打ちを飲み込んだ。

希釈した愛でも良いから
20150116
 
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