水彩世界の終極より | ナノ



唇から遠ざかる温度

 
 
 最近実姉(あね)の機嫌が良い。それは直属の部下である八人将からの証言で得ていた情報であったが、シンドバッド自身思い当たる節があった。
 人ごみと賑やかな所を嫌うエイダは食事を摂るのも自室が多かった。たまにヤムライハやスピティといった女子の群に混ざることもあるらしいが、それも執拗に誘って渋々頷くという形が多いらしい。基本的に彼女の生活の大半は自室か赤蟹塔であったのだ。
 しかし、シャルルカンからエイダが一度だけ銀蠍塔に居たのだという。食客の多い場所に居るということ聞きシンドバッドは大層驚いた。勿論、強要されて動く人間でないことは百も承知なので、エイダ自身が自ら赴いたと考えるのが妥当だ。しかもその後はシャルルカンと共に食堂へ行ったのだという。早朝の出来事であったためシンドバッドは自室に居たのだが、この時ばかりは声を掛けてほしかったのが本音だ。エイダの気ままさはシンドバッドですら手懐けることが出来ない程であったのだ。
 
「やあ、おはよう。姉上」
 
 ところが、ついこの間からエイダの機嫌はすこぶる程良かった。
 シンドバッドの挨拶に気付いたようで、彼女は振り返った。目深く被られているフードから自分と同じ髪色が見れないのを残念に思ってしまうが、浮かべられた笑みをみて、シンドバッドも唇を緩めて笑顔を作るのだ。
 
「ああ、おはよう」
 
 エイダの私服は装飾品が少ない。着ている服の素材を見れば上質なそれであったが、煌びやかな装飾品は基本的に身に着けておらず何もしらない食客たちはエイダの立場を知らないと言い切っても過言ではないだろう。
 誕生日になればシンドバッドは決まって装飾品を贈った。気まぐれで付けてくれるそれを見た時の満たされた気分はいつ味わっても最高だ。
 
「今日は早いんだな、シンドバッド」
 
 女にしては少し低い声もエイダの包容力を現わす。悪戯っぽく微笑んで見せた実姉にシンドバッドも声を上げて笑う。きっと今、八人将たちがこの光景を目にすれば苦笑を浮かべるだろう。シンドバッドはそんな自信があった。
 自分が実姉に執着しているのは長年共に過ごしてきた仲間たちの間では周知となっていた。
 
「今日は一緒に食事でもどうだろうか? 俺はまだ姉上の土産話を聞いていないからな」
「……そうだな。たまにはお前と食事を共にするのも悪くない」
 
 そう言い笑った実姉の姿を見てシンドバッドはやはりと確信する。
 はやり、エイダは機嫌が良い。しかも持続した機嫌の良さだ。機嫌は良いに越したことはないのだが、湧き上がった疑問がシンドバッドを悩ます。
 エイダの機嫌が良くなったのは無事に帰還したことを祝った宴からだ。けれどそれに参加していない実姉の機嫌が良くなるとは思えないので何か違う原因でもあるのだろうか。
 すぐ隣を歩くエイダの横顔を見ながらシンドバッドは思案するのだ。自分が関与していない“なにか”で実姉の機嫌が良い。部下たちから跳び抜けた功績を聞いた訳ではない。難攻不落と言われる国との同盟を土産に帰還した事実は確かにあるものの、エイダの機嫌が持続するとは考えられないとなれば、自ずとそれ以外の選択肢に迫られるのだ。
 年を重ねるにつれてエイダとの距離が開いたのはシンドバッド自身理解していた。エイダは武の道へ進んだことにより、国の政はシンドバッドの役割となったのだ。迷宮攻略に挑み7年も姿を見せなかった時は流石に気が気でなかったが、現実世界と迷宮内では時間差が生じているようで攻略した時のエイダは7年前と何一つ変わることはなかったのだ。
 機嫌に波があれど、エイダは基本的にシンドバッドに対して甘い。それはシンドバッド自身が絶対的な信頼を寄せていることを考えれば理解しやすい感情であったが、エイダは知らないのだ。――シンドバッドがエイダに抱く感情が家族愛とは全く別ものであるということを。
 
「そう言えば姉さん」
 
 シンドバッドが砕けた様子でエイダを呼ぶ時は、決まって姉弟間での秘め事の時が多い。
 顔を上げて自身を見る実姉の姿を見て、意を決して声を上げた。
 
「姉さんが嬉しそうな理由を教えてほしい」
 
 随分と直球な質問に出たとシンドバッド自身思った。しかし、気になる事実を隠しても仕方ない。直接的に聞くことがエイダにとって最良の選択であることは長年の経験から察していた。
 
「嬉しそう、私はそんなに嬉しそうか?」
「ああ」
「お前がそう言うのなら確かなのだろうな。自覚はなかったよ」
 
 はっきりと見える口元は幸せそうだ。
 
「本当は隠しておくつもりだったのだけれど、シン、お前には特別に言うとしよう。……つい最近な、友人と呼べる相手が出来たんだ」
「友人?」
「ああ。それは私の主観であって相手がどう理解しているか分からない。けれど、立場を忘れて会話を重ねるということは新鮮で楽しいものさ」
 
 その言葉を聞いてシンドバッドは瞬くこととなった。いつだって実姉の綻ぶ笑みを見る時は決まって自分のことか、シンドリアのことであった。シンドバッドがエイダを想うように、エイダもシンドバッドを大切に思ってきた。元より一般の男よりも勇ましいエイダの中には自慢出来る部下と守りたい国、そして弟である自分だけが存在していると考えていたが、いつの間にかシンドバッドの中にあった常識は崩れ去っていたようだ。
 それを聞いた瞬間、シンドバッドを襲った感情は表現しにくい感情だ。いつだって実姉は自分のことを考えてくれていた。一時は希薄な友好関係に心配することもあったが、今は自分と国だけを考える実姉の姿に満足していたのだ。
 次にシンドバッドを襲ったのは焦燥感だった。エイダの瞳は何を映し、何に対して微笑むのだろうか。シンドバッドはその答えを知らない。それが無性に口惜(くちお)しかった。
 
「友人か、」
 
 唇から零れ落ちた声に色が乗らない。
 少しずつ、けれど確実に、自分の温度が下がるのを感じた。
 
唇から遠ざかる温度

実姉は“あね”と読んでもらったほうが読みやすいかもしれないです。
20150223
 
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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