幾度となく、多くが通った道だった。
なぜ己の身体は朽ちることがないのか、なぜ最愛の人と添い遂げることすら叶わぬのかと、皆がその、終わりの見えぬ壁に悩み、苦しんだ。
そうして終いには、誰もが人を愛することを諦めた。誰もそういった戯れごとを、口にしなくなった。
暗黙の了解だった。

この若い娘には、まだ諦めきれぬのだろう。自身の数奇な運命を知るには、些か早すぎたのかもしれない。彼女にあてがった部屋は、酷い有り様だった。梁には首吊りの為であろう縄が括られているし、畳は畳で血が随分とこびりついてしまっている。

「また……あなたはこんなに汚して」

もう五日も経ちました。そう呟いて横たわる彼女の側に腰を下ろすが、ぴくりとも動かない。死んでいないのは百も承知だが、死体もどきと同じ屋根の下、というのもいい加減気が滅入る。

「朝ごはん、一緒に食べませんか」
「……」
「あなたの好きな甘い卵焼きも、あります」
「……たべる」

死体もどきがむくりと起き上がる。ぽさぽさになった長い髪をかきあげて、腹部を撫でて、首を触って、ため息を吐く。

「今日も駄目だった……」
「まだ、諦めませんかねえ」
「うん」

痛むのか、ずりずりと足を引き摺って居間へ来るので、負担がかからぬようふかふかの座蒲団を出してやる。彼女が腰を落ち着けたのを確認して、いただきますと向かい合って手を合わせ、朝餉に対して礼をする。

無言の、通夜のような朝の食卓も、もう四度目になるだろうか。食器の触れ合うカチャカチャという音と、小さな咀嚼音しか聞こえない、なんとも陰気な食卓だ。ごちそうさまでした。


「菊さん、お風呂」
「はいはい、沸いていますからどうぞ」
「……一緒に入る?」
「無花果を出しておきますから、とっとと入ってしまいなさい」

ざんねーん、と茶化すように声を弾ませて浴室へ行く彼女の背を見送る。その姿が見えなくなるまで見届けて、それから台所の冷蔵庫へ向かう。無花果を取り出したところで、変に張り巡らしていた神経が緩み、はあ、と深いため息が出た。


「日本刀を貸してください」
そう言って家を訪ねて来たときには、まだ希望に満ち溢れた表情をしていた。どうせ誰かが、日本刀なら楽にいけるかもだとか、馬鹿なことを吹き込んだのだろう。フランシスさんが、拳銃だけは使わせたくないと言っていたのを思い出す。頭が、まあ、この無花果のようになってしまうのだとか。

(……何を使っても、ものすごく痛いのは変わらないんですけどねえ)

どうしたら諦めてくれるのか、無花果の断面を見つめて、自分のときはどうして諦められたのかと記憶を辿ってみたが、思い出せなかった。誰かに方法を聞こうにも、水面下で、密やかにタブー視されている話題を気軽に吹っ掛けられるほど、自分の肝は据わっていない。

「菊さん、お風呂ありがとー」
「はい、無花果もちょうど剥けました」

早々に風呂から上がった彼女は硝子の器に入った無花果を暫くじいと見つめて、それからふにゃんと情けなく笑う。

「うーん…やっぱり明日食べる」
「明日、ですか」
「駄目?腐る?」
「……いいえ、それなら冷蔵庫に入れておきましょうね」

「明日」ということは、その単語が出てくるということは。無意識なのかもしれないが理解してしまっているのだろう。自分が死ねないことも、例え死んでも彼と同じところへ行くことは到底出来ないことも知って、それでも彼女はその部屋の襖を閉ざそうとする。

「なまえさん」

人を想って自分の身体を傷付ける、まだ愛することを忘れていない彼女は美しい。その薄汚れた、醜悪な佇まいの中でも、一等星のごとく煌々と光っていた。

「もう忘れなさい、あなたがダメになってしまう」

完全に閉まった襖にゴン、と頭を預けて、もう聞いちゃいないだろうが言ってみる。襖を隔てた向こうから、ざりと指で和紙を撫ぜる音がした。か細い声が返ってくる。

「……忘れ、ません」

そして同時に、血や涙にまみれてすすり泣く彼女はかつての自分のようで、浅はかで、愚かで、たいそう醜かった。何を言っても無駄なのは、身をもって知っている。彼女が襖を離れていく気配がした。聞こえておらずとも、言っておきたかった。

「……明日の朝は、塩鮭を焼きますからね」

今日も今日とて彼女は縄に毒に刃に、誰かを想って手をかける。
そして私は彼女の気がすむまで、翌日の献立に頭を悩ます日々を送るのだ。