ぐつぐつと音をたてて煮え立つ鍋の中の液体も、たくさんの薬が混ざった匂いも湿った地下の空気も。そんなものはどれも、僕にとっちゃ苦痛でしかなかった。
「……それ、最後よ」
隣で抑揚のない小さな声がぼそりと呟いたが、もう遅い。手順に反して蜥蜴の尾を突っ込まれた鍋の中の液体は、一瞬にして曇ったような、不安定でどんよりとした色に変わる。まるで今の自分の心境をそのままそっくり映しているようで、思わずため息が漏れてしまう。
「あー、ごめん」 「べつに」 「……本当にごめん」
隣で補習に付き合ってくれている彼女のことは、最近までリリーの友人であるということしか知らなかった。他には、シリウスが「ガッチガチに頭固まってる勉強しか能のない女」と言って嫌っていたこと。薬学が得意。リリーといるときだけ、ほんの少し優しい顔をしていること。僕の頭の中にはその程度しか、彼女に関する情報はなかったし、一生関わることのない、苦手な部類に入る子だと思っていた。
そんな知り合いと言っていいのかどうか、不安定な関係の女の子と同じ空間にいるという、たったそれだけのことで、今や僕の心臓は忙しなく揺らぐ目の前の液体の如く稼働するようになっている。彼女に僕の秘密を知られたあの日から、そうなるように頭が深々と刻んでしまったのかもしれない。
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満月の夜の翌日、いつものように満身創痍で医務室まで運ばれる半分化け物状態の僕を、たまたま見てしまったのが、彼女の運のつきだった。あれよという間によく知りもしない男数人に空き部屋に呼び出され、杖の先を突きつけられ、昨日見たことは、どうぞスッキリ忘れてくださいね。という「お願い」とは名ばかりの、脅迫を受けていたのは記憶に新しい。自分より体格の良い男ばかりに囲まれて怖いだろうに彼女は普段と同じように冷めた目で、どこか遠くを見ていた。「おいお前聞いてんのか」と怒鳴り始めたシリウスを彼女の前から無理矢理退かして、なるべく怖がらせないように言葉を選ぶ。
「ごめん、こんな化け物気持ち悪いだろうし、出来るだけ君の近くには行かないから、誰にも言わないでくれると 」
嬉しいのだけれど。と口に出す前に、彼女のあの冷たい眼差しが僕を射った。心臓がイヤな跳ね方をする。嫌だな、何を言われるんだろう。怖くて怖くて仕方がない。あ、口が開いたところは初めて見たな。小さな口だ。
「だから何、あなたはあなたでしょう?」 「他言する気はないけれど、あなたに対する態度を改める気もないわ」 「……え、あ 」 「それじゃ、さよなら」
そう啖呵を切って颯爽と部屋を出ていった彼女は、本当に、驚くほどに翌日からも今まで通りだった。飯時に偶然隣に座っても、薬学が得意だからと僕とペアを組まされても、顔色一つ変えなかったのだ。その視線とは裏腹に、あのとき自分はとても素敵な言葉を貰ったのだと気付いたのは、しばらく経ってからだった。
なかなかどうして僕という男は簡単で、その日の言葉とそれからの振る舞いをきっかけにこうして彼女と二人きりになるだけで、そわそわと意識するようになってしまった。目で追うたびに新しい「彼女」を目敏く見つけて、少しずつ好きだと思うようになった。今じゃその細い作り物のような指が眼前を往き来する毎に、滅多に開かない小さな薄桃色の唇がわななく度に「触れたい」などというなんとも変態じみた欲を抱いている。化け物の癖に、一丁前に人間に恋をしているのだ。
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「……ちょっと!」
珍しく少しばかり声を荒げた彼女に、手首を掴まれる。なにか気に障ることでもしてしまっただろうか、とおそるおそる彼女の方を向くと、怒ったような顔でこちらを見ていた。
「私、三滴って言った」 「ご、ごめん…何滴入れてた?」 「たくさん」
鍋がしゅうしゅうと火花を噴いている。彼女が一緒だと本当に、何事も上手くいくことがない。最近は殊更ひどくて頭が痛い。今日二回目のため息を吐いて、それからさりげなく掴まれた手首を安全な、僕の近くまでずらした。これ以上触れられては、駄目になってしまう気がしたのだ。
「……そんなに怖がらないで。捕って食ったりしないから」 「いや、怖くはないんだけど……」 「けど、なに」
「……指、きれいだから触ってみたいなって」 「……は?」 「いざ触れたら緊張しちゃって」
ああ、とうとう言ってしまった。項垂れると同時にガシャンと数本のピンセットとトレーが辺りに散らばった。彼女が肘を引っ掛けたらしい。僕が遂に変態みたいな望みをぶちまけてしまったように、彼らもまたそこかしこに飛び散っている。
「……っご、めん」 「だ、大丈夫、僕が拾うから」
床に散り散りになったピンセットをかき集める。なんだか気まずくなってしまって、黙って拾ったピンセットを、トレーに並べておまたせしましたと言わんばかりに彼女に視線を向ける。
「……」 「……なに」
声音こそ普段と違わずぶっきらぼうだが、その小さな手のひらで覆いきれなかった頬が、耳が。熟れたプラムかなにかのように真っ赤になっていた。潤んでいるのか、虚ろな瞳もいつもよりきらきらとしているように見える。 あ、なんか 可愛い、と思ってしまった。
「っち、違う、あ…あんたが変なこと言うからっ、あっつ……!」
何も言わないで長いことじっと彼女を見つめていた僕に、言い訳でもするかのように話し始めた彼女の指先が、鍋を掠めた。熱に歪んだ瞳を見て、思わずその手を掴んでしまった。水場まで彼女を引っ張っいって、蛇口を捻る。じゃぶじゃぶと絶えず落ちてくる水で、僕がじんわりと赤くなった細い指を撫でるように洗うのを、彼女は黙って、またもプラムになって待っていた。
(きれいな指。) (僕なんかが触れるなんて、おこがましいくらいにきれいな指だ)
「……ありがと」 「ううん、ごめん。もう触らない」
ぱ、と瞬時に手を放すと彼女の眉間に皺が寄る。次は何が気に障ったのだろう。やっぱりあんな変態みたいなこと言うべきではなかったし、咄嗟といえど、彼女に触れるべきじゃなかった。
「……何度でも言うけど、食ったりしないわよ」 「逆だよ、」 「なに」 「僕が、君を…捕って食べちゃいそうで怖いんだ」 「……はあ」 「ほら、僕人間じゃないから、ね?」
常にじとりと据わっている目が見開いた。それからぱちぱちと数回瞬いて、再度じと、と僕を見る。真一文字に結ばれた、小さな口が少しだけ開いて、ふう とため息を溢す。
「……くっだらないこと、気にしてんのね」
飛び上がるほど、驚いた。白くて細い指が、あの触れたくてたまらなかった彼女の指が、自らの意思で、僕の手に触れている。触れるどころか、両手で包まれている。 ぐらぐら、ぐつぐつ。 煮えている。鍋じゃない、僕の血だ。あの失敗作に劣らないくらいに沸騰している。全身を駆け巡る血液が煮えたぎっているんじゃないかと思うほどに、顔から手から全てが熱い。真っ赤な顔なんか見られたくなくて、床から目が離せなくなった。
「リーマス、」
名前を呼ばれた。もうこれ以上ないってくらいに、心臓がどくどくと脈打っている。心臓が一生に動く回数は決まっているらしいけど、多分、僕は早死にするだろう。それくらい暴れている。かり、と彼女の小さな貝殻みたいな爪が、やさしく僕の手を引っ掻いた。それにまた驚いて、肩がびくんと跳ねる。ふ、と唇から吐息が漏れたような音がする。僕じゃない。まさか、と期待に顔を上げる。
「……なンでしょう」
ひっくり返った僕の声に、今度こそ、はっきりとその唇は緩く弧を描く。笑った顔は初めて見た。こんな風に笑うのか。予想を上回る、可愛い笑顔だ。リリーは知っているのだろうか、僕だけが知っているんだったら、いいのになあ。
「狼に引っ掻かれたくらいじゃ、魔女は死なないわ」
ああ、なんで彼女ってばこんなに僕をすくってくれるんだろ。
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