「おい人間」

今日日みつあみなんて髪型をしているのは、偏見ではあるのだが自分のような陰気な女くらいだと思っていた。だのに目の前の背に羽を携えた御人は、天使様はその煉瓦色の長い髪を一つに纏めてみつあみにしている。かわいそうに、枝にでも引っ掛けたのだろう。少し形が崩れてはいるけれど。

「聞いているのか、人間」
「……はあ」

「元の様に結えるのかと聞いている」


こんなことになるのだったら立入禁止の森なんかではなくて、家に篭りきって読書をしていればよかった。天気が良いからといって、慣れないことはするもんじゃない。心の内でひそかに溜め息をついて、恐る恐る天使様の髪に触れる。枝毛の一本も見当たらないそれは絹か何かのようだ。人間なんぞが触って良いものかと戸惑うほどに、柔らかだった。

「……御自分では、結えないので?」
「自分で結うと思うのか」
「そうですね、召使位いますよね。すみません」
「……友人だ」
「そう ですか」

驚いた。ただ沈黙に耐えられなくなって発した質問に、誰が結っているのだとか、教えてくれるとは思わなかった。完全無欠の姿に生じた少しの乱れが仲間の目に触れぬように、仕方なく欲に塗れた穢らわしい人間が一時触れることを赦しただけで、干渉は少し足りとも赦していないと思ったのだ。

「できましたよ」

それからは黙々と作業に徹したので、存外早く天使様の乱れは修復出来た。出来を確かめるように自分の髪を触る天使様に、じわりと冷や汗が滲んだ。

「……友人のより上手いな」
「それはよかった」
「すまなかったな、本を読んでいたのだろう」

彼はそうっと私の本に触れた。歴史の本か、と言ってぱらぱらとページをめくる姿は天使と呼ぶに相応しく優雅だ。取るに足らない歴史の本も聖書か何かに見えてくる。

「とんでもない、私こそすみませんでした」
「謝ることなどしていない」
「いいえ。あなたたちの領域を侵してしまった」

実際のところ、私はさして信心深くもなければ神も信じていないのだから、領域云々はどうでもいいのだけれど、まさか天使様を目の前にそんなことは思えなかった。

「ここで読書がしたければしたらいいだろう」
「はあ、でも 天使様のご友人は不快かもしれません」
「そんなもの 」



「私の髪を結いにきたとでも言えばいい」
「……ありがとう、ございます」

今日の私は本当によく驚く。それから天使様は実に予想に反したことを言う。




そうして私は度々人目を盗んでは、天使様の棲む森に足を運んだ。時間の許す限り本を読んで、天使様がいらした日には彼の髪を結った。そのうちに過去の事実が記してあるだけの、つまらない歴史の本を持っていくのは止めてしまった。なんとなく、過去を知って私はどうするのだろうと思ったのだ。

「……もう歴史の本はいいのか」
「ええ、全て読んでしまいましたので」
「そうか」
「はい、出来ました」

最近はもう、天使様の髪を触るのにも慣れてしまった。そうして私はいつものようにすまないなと言う天使様に、今日もいえいえそんなとんでもないと返すのだろう。みつあみを触りながら、天使様が口を開く。

「綺麗だな」
「毎日自分のも結ってますので、あとは天使様の髪が綺麗に纏まってくださるからでしょう」
「……セインだ」
「?」
「私にだって名前くらいはある」

なんのこともないみたいにそう言ってのけた天使様は私の持ってきた本をぱらぱらとめくり始める。

「あ、あの 失礼しました……セイン 様」
「様も付けることはない」
「や でもただの人間が、そんな」
「私だってただのセインだ」

そんなのめちゃくちゃだ、屁理屈だ。それでもただの人間の私は、ただの天使様のお願い事をはねつけることは出来なかった。

「……セイン」
「なんだ」
「今日はいつもと違う感じがします」
「……変だろうか」
「…… ちょっとだけ、でも嫌ではないです」
「そうか」

セインがわらう。いつもは口角だけだから、目を細めて微笑んだ顔は初めて見た。

「セインは笑った方が美しいと思う」
「そうか」

風に揺られる天使様、セインの髪は、今日も綺麗だった。