※基山ヒロトが十八歳



いつもそうだ。彼女の住まいを訪れると、早朝の森のようになっている。朝靄なんて美しいものではない、ただの煙だが。

「換気扇くらい回したらどうなの」

ソファに沈み込んで一服どころか二服も三服もしていそうな彼女に言ってみるが、んんとかふんとか喃語みたいな返事しか返って来なかったので、諦めて隣に浅く腰掛ける。

「俺、煙いの 」
「知ってる。好きじゃないんでしょ」

じゃ、こんな家来なきゃいいのよ。なんて口では言って、手は灰皿に煙草をぐりぐりと押し付けているものだから、少し可笑しくなってしまう。何笑ってんのなんてぼやきながら立ち上がった彼女は多分、換気扇の方へ向かったのだろう。

吸い殻に手を伸ばす。昔は、当たり前だけれど彼女もこんなもの吸わなかったのに。飴玉の延長線だろうか、園にいたときはよく棒のついた飴をくわえていたから。何の気無しに、ぱくりとその吸い殻をくわえてみる。苦くてまずくて、最悪だった。

「あっ、ヒロトが法律違反してるー」
「こんなまずいもの、吸ってるんだ」

戻ってきた彼女の両手には、マグカップが握られていた。中身はいつもの少し苦いココアだった。

「いいでしょ、口が寂しいの」
「飴は?……昔みたいに」
「ばあか、いい社会人が ちょっと一服して来まあすなんて飴ちゃんくわえてたら格好悪いの」

再びソファに沈み込んだ彼女は俺の頭をわしわしと撫で、ずずずと音をたててココアを啜る。それ 可愛いと思うけどな、俺は。と独り言のように呟けば、「マセガキ」と軽く叩かれた。




「そうだ、進路どうするの、十八歳」

新聞を読みはじめていた彼女が、沈黙を破った。相変わらず目線は新聞に落としたままだったが、先ほどまできょろきょろ忙しなく動いていた目は一点で止まっていた。

「……さあ」

働くんじゃない?
それだけ呟いて、マグカップに口を付ける。もう大分飲んで下の方まで到達してしまったから、色も味も濃くて、苦い。

「なんで」

ば、と新聞から顔を上げた彼女は、特別表情も変えず、口直しに飴の封を開ける自分とは対照的に、驚いたような複雑なような顔をしている。

「それ、サッカーは、ってこと?」

彼女は戸惑いがちに、ゆっくりと頷く。多分、俺が金銭面のことを考えて、大学へ行くことに対して遠慮でもしてると思っているのだろう。……自分がそうだったから。

「サッカーはどこでも出来るよ、大学じゃなくても」
「でも」
「それより早く大人になりたいんだ、マセガキなんかじゃなくてね」

この人はいつだって、そう。俺がいつまででも可愛い弟分だと思っている。今も飴なんかくわえてる間はガキなんだよ、とくすくす笑いながら頭を撫でてくる。嬉しいけど、悔しくて、複雑だ。


「生き急いじゃって、まあ」
「だってなまえ、大人の男がタイプって言ってるし」
「ん?」
「俺が早くしなきゃ」


「……嫁き遅れたく、ないでしょ?」

バサバサと新聞紙の落ちる音がする。目の前のなまえは目を見開いて、口をぱくぱくとさせていた。まるで餌を求める魚のようだったので、自分がくわえていた棒付きキャンディを彼女の口に放り込んでやる。

「……わ」
「なーに?」
「わわ私、ロリコンじゃないし」
「二つしか違わない」

いよいよ真っ赤になってきたのが恥ずかしいのか、顔を伏せようとするけれど、両手で彼女の顔を包んで下なんかは向かせてやらない。

「ねえ、やっぱり煙草よりそっちのが可愛い」
「……うっさい」
「間接キスだね」

「マ、マセガキ!」


手を振りほどいて、彼女は林檎みたいになった顔をクッションに埋めてしまったけど、耳が真っ赤なのを隠せていなくて、思わず笑ってしまう。ははは、可愛いなあ。