もうこの家であなたを笑顔で迎える事が出来なくなりました。
今までありがとう。さよなら。
なまえ
俺はそう書かれた紙をそっとリビングの机に置いた。かさ、と静かな音が鳴る。
二人が快適に過ごせるようにと借りていたアパートはなかなか広く、一人佇むには広すぎる。そんなリビングの真ん中にいる俺は、世界でたった一人になったような心持だ。少しだけ軋む心を感じながら、メモ用紙の横に置かれていたシンプルなシルバーリングに目をやり、からからに乾いていた喉をうるおす為にキッチンに足を踏み入れた。同居するからといってやたら気合いをいれたあいつが選んだ大き目の、音声メモがついた冷蔵庫の取っ手に手をかけた。
「…」
録音メモ、15件
その文字が画面上に浮かび上がっていた。この音声メモ機能は最大15件までしか残せないので、要するに、フルで使われているわけだ。俺は震える手で再生のボタンを押した。
今日の夕ご飯は秋刀魚だよ!大根おろしもあるから、ちゃんと食べてね。お疲れ様。
ご飯、炊きたての方がいいのはわかるんだけど…ごめん、どうしても残っちゃって。冷凍にあるから、チンして食べてね。今日は肉じゃがです。お疲れ様。
……今日の夕飯はサバの味噌煮とほうれん草のおひたし。結構、美味く作れたんだよ。…お疲れ様。
ごめん、今日はなんだか疲れちゃって…ご飯、用意出来てないんだ…って言っても、作っても、蓮二は、食べないよね…お疲れ様。
全部が全部、今日の夕飯に関するメモだった。恐る恐る冷蔵庫のドアを開ければ、その音声メモにあった献立が、ちょくちょく、残っていた。その次に生ごみ入れの蓋を開ければ、肉じゃがにサバの味噌煮などが無残に捨てられていた。また、心が軋む。
いつからだろうか、朝早くから仕事に行き、夜遅くにあいつが寝ているベッドに滑り込みすぐ寝るというサイクルの生活を送るようになったのは。喋る時間も、何もなかった。しかも、俺が稼いだ給料でのうのうと家にいるだけのあいつが、少し疎ましくもあった。俺から、働かなくていいと、のたまった筈なのに。
「!」
キッチンで立ちつくしていたら、携帯がスーツのポケットの中で震えた。
まさか、あいつか、と一縷の希望を胸に携帯を取り出してみれば、なんてことない、精市からだった。急激に落胆していく気持ちを感じながら、重々しい仕草で俺は携帯のボタンを押した。
「…もしもし」
「あ、夜分遅くごめん。俺だけどさ、なまえさんってなんかあった?」
「!?なっ、」
「いやあ、なんか急に今日の朝来てさ、辞表置いてったんだよね。急で本当にすみませんがってさ」
「今、なんて、」
「え?いや俺の経営する花屋でバイトして…もしかして、柳、知らなかった?」
訝しげな声が電話の向こうから聞こえた。あいつは、働いていたのか。俺の与り知らぬところで。
「い、つから」
「んー…半年前くらいからかな。丁度お前たちが同棲始めて一年過ぎたくらいじゃない?」
「そんな、前から、」
「…もしかしてだけどさ、お前、」
逃げられたの?
精市の言葉が重苦しく俺にのしかかってきた。精市が呼ぶ声もそっちのけに、俺はおもむろに電話を持っていた手を下すと、電源ボタンを押した。俺は心のどこかで、まだ、まだ帰ってきてくれると思っていたのかもしれない。これは一過性の、喧嘩なのだと。2、3日もしたら、ひょこっと帰ってくるものだと、思っていた。ごめんねってあいつが笑い、そして俺があいつを抱きしめ、こちらこそすまなかった、と言って、それで。
とりかえしが、つかない。
その言葉が俺の頭をぐるぐると回っては、脳みその芯に溶けて、浸透していく。
俺は、お前が間違いなく、好きなのに。
(愛想尽かされた柳さん)