短編 | ナノ






「う、わぁー……」

私は深い藍色に染められた、一級品の絹の布を広げた。さらさらと手を滑るようなそれは今までに触った事もないような、綺麗という一言では言い表せないようなものだ。大きさからしてきっと外套の為に仕立て上げているもの。私は店主であるここの女将から渡された刺繍の図案を見ながら、ほう、と息を吐いた。

「……頑張ろう…」

刺繍も金やら銀やら、とても豪勢な色使いだ。まさか金糸を扱う日が来るとは思ってもみなかった。この刺繍にこの量の金糸を使おうものなら貴陽にひとつ家が建てられる。準禁色に染め上げられた絹を使っているのだから、まあ、そんなお金事情はお察しである。藍家だ。私はこの彩雲国の貴族事情にはみんなに驚かれるくらい疎いのだが、流石に彩七家は知っている。……筆頭門家はと聞かれれば申し訳ないが首を傾げてしまうのだが。

そんな私が貴陽でも一、二を争う、貴族御用達の仕立て屋で針子をしているのだから、ちゃんちゃら可笑しい話である。

「いやでも私は純粋に針仕事が好きなだけであって、まさかこんなにお高い店に奉公する気も無かったんだし、なんで女将は私なんて拾ってくれたんだろう…いやでも感謝しているし…」
「随分大きい独り言だね?」
「わあああ!」

驚きすぎて大きな声をあげすぎた。声をかけた人物も私の声に驚いて一歩引いていた程。まさかお客さんが来ていたなんて思いもしなかった。私は相手の顔を見ないままに勢いよく頭を下げた。ちなみに私の今いる場所は仕事部屋ではなく店頭である。売り子も針子も、私の仕事だ。針仕事をしながら、お客さんの相手もする。お客さんが来るのは当たり前の事だ。

「もっ、申し訳ありません!いいいいらっしゃいませ!」
「あ、ああ、…大丈夫?」
「あは、あはは、大丈夫、です…申し訳ありません…」
「あ、いや、ごめんね。随分集中していたみたいで…」

穏やかだけど、理知的で、隙を見せないような、だけれども不快感を全く与えない、そんな声。体の奥まで響いた声に少しだけ驚きとは別の胸の高鳴りを感じながら下げていた頭を上げれば、とてもきらきらしていて、とても同じ人間とは思えないような綺麗な男の人が困ったように笑っていた。まるでこの藍色の絹のような、綺麗な人。私の与り知らぬところで何かを判断したのだろう、無意識に熱が顔に集まってきた。ああ、恥ずかしい。

「あの、ええと、ご注文、でございましょうか…?」
「え?あ、いや、ちょっと様子を見にね。君がこの刺繍を?」

よくよく見れば、準禁色の藍色を纏っている。きっと藍家直系筋からのお使いか何かなのだろう。様子とはきっと藍家から注文されたこの仕立てなければいけない外套の刺繍の様子。そう察した私は図案を指差されて恐る恐る、頷いた。それを見た藍家の方は驚いたように切れ長の目を瞠目させた後、何故か、納得したように柔らかく微笑んだ。またそれにとくりと胸が鳴る。だがそれも次の言葉に崩れ去る事になる。

「若いのに凄いね。まさかここの刺繍をこんな可愛い女の子がしてくれていただなんて」
「か、可愛い……」
「ね、君名前は?おいくつかな?よかったら、甘味でもご馳走させてほしいな」
「え、えええ……」

まさかの春頭だった。見た目はとても誠実そうで、きちっとしている分とても違和感を感じてしまう。私は思わず頬を引きつらせた。第一印象のトキメキとやらを返して欲しい。上げて落とされた。私はにこやかに笑っている藍家の方を見上げ、曖昧に笑った。

「あの、私、お仕事あるんで」
「その刺繍なら、いつでも構わないよ」
「そういう問題ではありませんので、またの機会がございましたら」
「なら、そこで見ていていいかな?」

笑顔で指差した先は私の隣である。私は一層頬を引きつらせた。依頼先の人に仕事を見られる事ほど気まずい事はあろうか。だがお客様はお客様。私は渋々、曖昧な笑みを崩さずに頷いた。

「私の知り合いにも、刺繍を綺麗に施す子がいるんだ。君ほどではないけどね」
「(はべらせてる子なのかな……)」
「なんだろうね、その子と君の手、すごく似ているんだ」

目の前で淡々と刺繍を施していた子がやっと興味を持ったように此方を見上げた。飛び抜けて綺麗な訳ではない。至って平凡で、どこにでもいそうな子だった。だが店に入る時に見た彼女は、愛しそうに、とても楽しそうに藍色の絹に手を滑らせていた。その仕草がとても綺麗で、まるで絹の布と踊っているような、そんな印象を受けた。ああ、好きなんだなと、一目でわかってしまった。そこで思い出す、辺鄙な場所にあったぼろぼろの仕立て屋の店頭に雑に並んでいた布。布の質は粗雑な物であったが刺繍の模様はとても繊細で、細かな所まで際限なく綺麗に施されていた。あの刺繍を一目見た時から気に入っていた私はどこの誰がそれを仕立てたのか気にはなったが、その時は主上と絳攸と探し人を捜索している最中であった為断念したのだ。それをここの店主に話していた事を思い出す。

「(拾ってきたんだな…)」

あの我の強い女店主の事だ、一目で仕事ぶりを気に入り攫ってきたのだろう。思わず笑みがもれてしまった。くすくす笑う私に、彼女は不思議そうに、未だ頬を引きつらせながら首を傾げている。

「だからなんだって顔だね。頑張っている女の子は好きって話だよ」
「わ、私、頑張っている、んですか…?」

私は頑張っているつもりはない。
ただ好きだからやっているだけだ。

針を通しながら藍家の方に尋ねれば、それこそ何を言っているんだとばかりに首を傾げていた。

「手を拝借しても?」
「え、え、あ……」

自然な動作で私の手を金糸ごととった藍家の方はジ、と私の手を見つめた。金糸に紛れた私の手は間違えて針で刺してしまった痕だらけでとても綺麗とは言えない。羞恥に顔にカッと熱が集まってしまった。

「(あ……)」

だが、今触られている手に全神経が集中している事でわかった事がある。この藍家の方、手がタコだらけで、更に剣を鞘に収める時に出来る傷痕が見受けられた。藍家直系筋に関係する人がこんな手をしているだなんて思いもしなかった。もっとすべすべで、それこそ傷一つない、綺麗な手をしているのかと思っていた。

藍家の方は丁寧に金糸を私の手から取ると、またにこりと笑った。

「頑張ってなきゃ、こうはいかないものだよ。君の手は努力の証だね」
「……お客様の手も、大きくて、お強い手ですね」

そう小さくはにかんだ彼女に、私は不意をつかれてしまった。

「……結構なにも守れてない、手なんだけどね」
「私、お悩み相談は承ってないですよ」
「つれないなぁ。女性につんけんされたのは……なかなか、ないよ」

珠翠殿の顔が頭に浮かんだ。思わずくす、と笑ってしまう。彼女はそんな私の顔を見ていたのか、不思議そうに、首を傾げた。

「……大事な方がいるのではないですか。その方ですか?刺繍をされているというお方」

彼女の言葉にぱちくりと瞬きをしてしまった。次いで、思わず思い出してしまった珠翠殿の刺繍の腕に、また笑みがこぼれてしまう。珠翠殿の刺繍の腕は、取り繕うにしても個性的すぎるものである。彼女の尊厳の為にも黙っておいたほうがいいだろう。

「お悩み相談はしないんじゃないのかい?」
「……世間話の範疇です」
「なるほど。……なら、おまけに世間話をもうひとつ。明朝に私はここを発つ予定なんだ」
「はあ」
「その外套、持っていきたいと思っているんだけれど」

思わず私は大きな声で、え!?と叫んでしまった。あれ、だって確かこれの納品日は次の公休日だった筈。眉間にシワを寄せながらジト目で藍色の彼を見れば、彼は面白そうにくすくす笑っていた。

「多分無理そうだから、これは君に預ける事にするよ。いつか、兄上達を説得したら必ず戻ってくる。この手に恥じぬような、守りたいものを守れるような私になって、改めて、その外套を受け取りに来たいんだ」
「は、はあ……やはりお家柄が複雑でらっしゃるん、です、ね……?」
「あはは!うん、そうだね、複雑だね」

やはり彼女は、自分が藍家直系の四男坊である藍楸瑛本人だとは思っていないようである。だから、こんなにも自然と話せているのだろう。楸瑛は笑ったことにより自身の目尻にじんわりと溜まった涙をすくった。

「それまでに、仕上げておいてくれないかな。また取りに来るよ。その時、お茶しようね」
「えっ、予約はこの帳簿に、」
「大丈夫。女将に、藍楸瑛本人が来てそう言ってましたって言ったら通るから。よろしくね、頑張り屋さん。次こそは名前を教えてね」

唖然とする私を置いて藍色の彼、…藍楸瑛様はにこりと笑うと颯爽と去って行ってしまった。その姿が見えなくなって、私は思わずまた叫んだのだった。

(なんだい騒々しい)
(女将!今!藍楸瑛様本人が!)
(なんだい、また来たのかい?今度はなんの無茶振りさ?)
(おおお驚かないんですか!?)
(あれま、言ってなかったかい?あのオンボロ屋敷にいたあんたを見つけたのは彼の方だよ。この予約票の藍色の上様ってのは藍楸瑛様本人さ)
(ええええ!?!?)


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