1


 灯台をみたくてどこかへ行ったはずの夜、わるい夢を幾つかみた あるときあなたはいぬになっていて、わたしを舐め尽くそうとしていた わたしはそれをわらいばなしにして放っておいて あの映画の曲ってなんだったっけと思考を逸らしていた よる中吸っていた煙草の匂いが脳髄に染みついて たぶんもう抜けないんだとおもった わたしはアラームをたくさんかけていた だからことあるごとにゆめは中断されて はっとめが覚めたとき、夢の内容をおもいだすのにいつもすこしの時間が必要だった でもどれもがすぐにわたしの記憶によみがえってくるから、わたしは“たしかにあのひとのゆめをみていた”のだと認識できた そのあとの夢でわたしは泣いていた けれどだれかの為にわらっていた おおきな窓がらすのむこうで青褪めていくしろい海を眺めて ただ漠然と わたしのあらゆる感かくに巣食うわるいものを秤にかけていた あれよりはまし これよりはまし あのひとよりはずっと、まし そうして起き抜けのみずはつめたい 退屈な映像たちにわたしは魘されそうになる 化粧台の鏡を割れなかったころの幽霊はもうそこには居なかった そとがじきに青くなるからだと幽霊は云った わたしは頷いて あの途切れとぎれの流れるものが波なのだと知る ここの道を真夜中に二台、車が流れていったのを憶えている 仄かな昏がりに寝ころんで傷のあとをなぞった たらふくに摂取した栄養はあたままではまわってくれない わたしは膝をかかえて本を読んで もういちど いままでに起きた総てのことを漠然と秤にかける わたしがどこから来たのかはもう喋ってしまっていた それならあなたはどこへ行くつもりなの? と幽霊が訊ねる けれど振り返っても酸っぱいあとあじがしがみついてくるだけで誰もいない なんだかいちど死んだ気分だった 酸っぱいあじは死んだあとのわるいもののようだった  わたしは灯台へは行かなかった 行き方がいまいちわからなかったから 秤にかけることすらしなかった かつて真っ青な幼さにちぢこまっていたわたしは歳をかさねて あなたが存在しないあの夜にふとこぼしていったうつくしい諦念を盗んだから 盗む癖がついていたから

 じきに夕暮れるの、でもそのときにはもうあなたは居ないのね、と幽霊はかなしんでくれる わたしはこの盗み癖を あなたに教えてあげられたらいいのにとおもった

野良の幽霊がうしろで唸るのを
みしらぬひとがミルクで餌づけしていた
だからわたしも混ぜてもらうことにした
ぬるい液体を啜って身体のうちがわをなぞっていくのを
記憶がまざるようだとわらってみたかった
じきにいなくなるひとたちを
せめてその眼球だけでも盗んでみたかった




2


 ゆびを齧るゆめをみる 娘が自殺したというひどく親切な夫婦のゆめをみて そのなかでわたしは誰かに背後から“あなたなにをやってるの?”と怒鳴られている




3


 しらないもうひとつの家に這入り込んでいる つまさきだちでなかをみて回る わたしに与えられた部屋はひどくひろい ベッドはうつくしく整然として 床でたおれるようにして睡る あなたはどこにもいない 深い浴槽の蛇口からは赤褐色の液体が枯れ葉まじりに垂れて わたしの脹ら脛をつたう 時計はこわれている それなのにわたしはその時計の示す数字を信用していた うごいているものは総て正しくあるのだと疑うことをしなかった わたしは古めかしいもうひとつの家をきにいって しんだら棲み憑こうときめる 死後のことをおもいうかべてみたされる “あなたなんて要らない”と突きつけたのはそのあとのことだ 背後でがなりたてる幽霊に出ていけとは云えず、ただそうこぼしてみた “あなたなんて要らない” あのしたたる茶色いみずで拭えばきずあとはもっと膿むかもしれない わたしはゆっくりと部屋に引き返して すこしまえまではなかったみみの片方ちぎれたぬいぐるみが床で睡っていることに気づく しっぽの代わりに縫いつけられたちいさなタグには“問題はやまづみ”の文字が乱雑に書かれていた わたしは走って 恐ろしくなるまえにどうかと死にものぐるいで走って 煙草やさんで火を売る女の子が値うちのない絵画を壁に飾りつづけているのを横目でみる わたしは予定に間に合う電車の時間をすっかり逃してしまって いいわけをかんがえる為におもむろに振り返る あなたはつめたいみずで頬をぶたれたみたいなおっかない表情をうかべていた うでが濡れている でもなにもこぼれない わたしは訊ねる 「どうしたら好い?」 あなたはわたしの瞼の膨らみをぐっと押しこんでしあわせそうにする わたしの肩は大袈裟なまでにおおきく上下に揺すられている 自殺してしまうのはこういうことかとおもった 漠然と 腑に落ちるとはこういうことかとおもった

だからゆめをみた ゆめのなかで
“わたしは都合のよい存在を確信していた”

なにかが腐っている
身体のなかで 奥で
ゆびのとどかない深いところで
膿んでたものたちがここぞとばかりに腐っていってる




4


ゆめをみた どんなゆめをみたの? あなたは奇しくも雪崩れてゆく わたしは浴槽で このきずあとをみられまいとしている どこかへ逃げるならいましかないと腹を括っている かつて道連れにしたがった“だれか”によって拵えられたうつくしい日々の紛いものに浸け込まれている それがだれなのかはしっていた けれどかおがよく みえなかった “あなたは” たくさんのいぬがいる わたしの飼い犬はそのうちのただ一匹で わたしはかれらを手懐けて檻から出そうとする あなたはこの部屋のとびらをノックしたがる わたしはきずつけられた手背がかれの無惨な肢体に似ているとわらいたがる 此の世にはうつくしい曲があって うつくしいことばがあるのに わたしは亡霊じみてわらいたがる わたしのいない居場所をわらいたがる それらをたらふく呑みこんだあとで 鏡をみている つめをたてればやぶれる鏡だ なにひとつ映さないまぶしいがらす片のなかで わたしはやわらかい恐ろしさにのたうちまわって しにたくなっている “あなたは”? なにひとつ告げられずに しにたくなっている

“あなたはだんだんいなくなる”
ここから
この総てのよるから
もうどこへだって行かなくていい
もうどこかへ行かされる必要もない
そうしてあなたはちいさな
ちいさな死に時をみつける




5


“出て行って”











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