壁一面のうつくしいフラスコ画のように無数の悪魔がそこらじゅうに佇んでいるのがみえるでしょ?
 あなたの肢体が引き摺りのばされる。なんて悪意のないうつくしさなんだろう、そうつぶやいて額のうちがわを充すように匂いを吸い込めば、先ほどまで脳髄で怒鳴り散らしていた恐怖が潰えていくのを感じた。背後ではすう匹の悪魔が倒れる。眼球をぐるぐる回して、死んでいるみたいにたおれる。それでわたしの微かな胸騒ぎは暗やみに擦り切れる金属のおとにかわる。
 あなたの半身には粉々の永久歯だけがまぶされている。冷たく硬直したうでをうっかり折ってしまわないようにゆっくりと近づいて、しずかにしゃがみ込む。均整のとれたきれいな左と右のひじはやわらかい焦げ目がついていて、骨のくぼみは蝋のように溶け出している。華奢な手頸は惨い熱を発しながら無色のゆらめきを纏い、いまにもはじけて発火しそうだった。
「これくらいじゃ燃えない」
 背後でだれかが云った。丁寧に、しかし不服そうに。それがあなたなら好い。
 まどろむ意識のなかではじめてあなたを拾いあげたとき、頬を引っ掻いてくる奇妙な愛嬌にこわされるほど惹かれた。なにもかも音を立ててぶち壊して、尖らせたぬるいこわねで責め立てて、無邪気にひき攣る皮膚をちぎって齧り散らして、それからただとなりにいて欲しいと思った。ただとなりにいて、わたしが身を滅ぼすさまを黙ってみていてほしいと思った。そうしてぐちゃぐちゃのがらす片になってしまったわたしに触れて、えいえんに後悔すればいいと思った。この物騒で落ち着きのない感情が恋いであっても、そうでなくても、なんでもよかった。漠然とした鬱屈がわたしの頸をなぞるふりで絞めあげる。訳もわからず泣いてしまいそうだった。これが恋いなら世のなかはあざやかに印象づけられた酸っぱい悪夢のまがいものだ。
「柑橘くっさ」
 幽霊になり損なったあなたはまじめな目つきをしたままそう云うと、わたしのくちからこぼれる甘ったれたうそっぱちに齧りついた。よおくよおく噛み熟して、ときおり噎せかえるあなたは余りに身勝手で、無防備で、気味のわるい幼なごのようだった。その痴態を一瞥するわたしの瞼はいよいよ褪めはじめている。わたしはこれから、残してしまった人生の凡てをこの謎めいた暴力性にくれてやるのだ。やることは一つしかない。
 恋いは拙い嫌悪に似ている。それは呪いよりもうんと厄介でひどくかわいいことばで飾りつけられて、わたしにあなたの眼球を割らせる。壁一面にとび散ったじゃりじゃりは盛りの花びらのようにうつくしいのに、わたしは再びあなたの眼球を、割る。









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