027 本当の名前▼side:美緒
台所から戻った権兵衛(仮)の顔はまだ青かった。
さっき無意識に放り出してしまったスイカバーが、畳の上で溶けている。
慌ててティッシュで拭きとったけれど、赤い染みが出来てしまった。
それは、まるでさっきの――
ふと視線を感じて顔を上げると、権兵衛(仮)はまだ廊下にいた。
ぼんやりと円い赤い染みを眺めている。
「入ってきなよ」
そう言ったら、無言で素直に従った。
とん、と音をさせて障子を閉めたその顔に向かって、考えるよりも先に言葉が口から零れ落ちた。
「――病気?」
「怪我。池田屋でちょっとね」
そう言って曖昧に笑った顔はそれ以上の詮索を拒んでいた。
けれど“池田屋”というキーワードに何か引っかかりを感じた。
どこかで聞いたことのある様な――
珍しく無口な彼につられて、私も口を噤んだまま。
結局、月が消えるのと一緒にあいつが消えてしまうまで、私たちはその夜、一言も口をきかなかった。
「……寝るかな」
権兵衛(仮)がいなくなって、少し広くなった部屋に私の声がぽとりと落ちる。
スイカバーがシミになったところを避けて布団を敷いた。
けれど、最後にあいつとしたやりとりが頭から離れない。
「池田屋?」
そう訊ねた私にあいつは何も答えなかった。
多分、権兵衛(仮)は‘池田屋’で自分の身に起こったことを知られたくないと思っているんだろう。
それをわざわざ調べるのに罪悪感があったけれど、それでも、こんなもやもやしたままじゃ眠れない。
(……池田屋、か)
好奇心が勝った。
(ごめん)
心の中で謝って、パソコンを起動した。
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