026 咳▽side:総司
「……っけほっ」
あの日――池田屋での戦いからこちら、時折こうやって咳が出る。
時折、胸の奥から咳と一緒に血の味がする。
いつまでも治らない見えない傷に、受けた屈辱を見せつけられているような気がして、僕はこのところ少し苛々していた。
次に会った時は、必ずこの手で斬る。
気持ちばかりが膨らむのに、「本調子じゃない」と言って、過保護な土方さんがいつまで経っても僕が道場に入ることを許してくれない。
本調子じゃないのは分かっているけれど、いつまでもぼんやりしていたんじゃ身体も鈍る。
あーあ、つまんないの。
いつもみたいに満月が昇って、僕はまた時を超え、未来に行く。
何のために行かされるのか、そもそも理由があるのかさえ分からないけれど、僕の意思に反する時間旅行。
思うようにいかない身体と同じ、目に見えない大きな力に翻弄されているようで、なんだか癪だった。
激流を流され、気まぐれにひっくり返される木の葉みたい。
ふと、焦点を結んだ視界にちらりと赤いものが映った。
スイカ?
美緒ちゃんの手には串に刺さったスイカが握られていた。
こちらでは、スイカはそうやって食べるのかな。
苛々の中で微かに好奇心が頭をもたげる。
美緒ちゃんは満面の笑みで今まさにそれを口に含もうとしていた。
「何食べてるの?スイカ?」
そう、声を掛ける。
掛けたのに、無視された。
最近、彼女は僕に慣れてきたのかちょっと生意気。
「ねぇ、無視するの?そんなことしていいと思ってるの?」
そう言うと、権兵衛(仮)なんて、また変な名前で僕を呼んで、気づかなかったぁーなどとわざとらしく笑う。
絶対気づいてたよね。
僕の声、聞こえていたよね?
ていうか、この前から何なのその名前。
(仮)ってなんなの。
もう名前じゃないよね、そんなの。
僕そんな変な名前じゃないし、そう言ったら妙な猫撫で声で「お名前、教えてくれるかなー?」なんて言ってくる。
あああ、もうこれ以上苛々させないでよ。
ホントに斬っちゃうよ?
まあ、本当の名前を教えるつもりのない僕も僕なんだけど。
間違った情報だとしても彼女はほんの少し僕のことを知ってるようだったから、僕が‘沖田総司’だって知ったら、きっと色々と面倒なことになる。
気楽に冗句を応酬できる、今の関係を維持したかった。
‘すいかばー’の説明を始めたやたら丁寧な彼女の口調に文句を言ったら、すごい驚いた顔をされた。
その喋り方、親切のつもりなの?
バカにされてるとしか思えないんだけど。
まあ、いいか。
「ふうん。僕も食べてみたいな」
素直にそう言ったら、彼女はちょっとだけ嬉しそうな顔をしこっちを見つめてきた。
僕が君のものに興味を持ったのが嬉しい訳?
よく分からない反応にため息が出た。
彼女がぼーっとしている間にその‘すいかばー’はだらだらと溶けていく。
それを指摘したら、慌てて紙で拭っていた。
あーあ、勿体無い。
「ちょっと待ってて、あんたの分取って来るから」
そう言って立ち上がった彼女を見送ろうとして、またあのむず痒い空気が喉をせり上がって来た。
堪え切れずに咳き込む。
ああ、ちょっとひどいな、これ――
どくどくと耳に五月蝿い血液の流れる音を聞きながら咳の合間に空気を求める。
それでも身体が欲しがる分には全然足りなくて、頭がくらくらした。
口いっぱいに、血の味がする。
咳に押されて飲み下せなかった分が腕を伝った。
「ちょ、大丈――」
そう言って駆け寄ってきた彼女が視界の隅に映る。
それが、あの日の千鶴ちゃんと重なった。
僕のことをねじ伏せた、あの蔑むような赤い瞳が笑ったような気がした。
僕は役立たずなんかじゃない――!
触らないで。
反射的に彼女を振り払った。
邪険にされた彼女は、赤くなった手を握って項垂れたまま身動き一つしなかった。
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