104 きみがかえるばしょ▼side:美緒
「美緒ちゃん、手貸してみてよ」
今日の総司はやたらに機嫌がいい。
というか、うざい。
機嫌が良過ぎて絡んでくるから、本気でうざい。
ああもう早く帰れバカ!
もうすぐ居なくなるだろうことは時計の針が教えてくれていたけれど、そう願わずには居られない程に私は苛々していた。
「貸さない」
「どうして」
「だって碌な事しないでしょ」
失礼だなって笑うその顔が既に胡散臭い。
その辺で拾ってきた妙なものを乗せられるか、隠し持ったペンで下らない落書きされるか、抓られるか叩かれるか。
兎に角、今日一日を振り返れば、悪い予感しかしない。
そんな罠に自ら飛び込むバカがいるか。
「嫌なものは嫌なの」
「ふうん、疑ってるんだ?」
そう言ってから、総司はすたすたと障子戸に歩み寄る。
「じゃあ、美緒ちゃんに疑われるような悪人の僕はこの障子に片っ端から穴開けるけど、それでもいいよね?」
「はぁ?!」
脅し方が完全に子供なんですけど、これって突っ込んでもいいのかな。
余計に拗ねて更なる暴挙に出そうで怖い。
ていうか、障子を破られるのは正直困る。
どちらかというと器用ではない私が障子の張り替えをしようものなら、紙がだぶついたりシワになったり、ちょっと悲惨な状況になるのが常。
ばあちゃんが居なくなってから一度も張り替えていないそれは、日に焼けて黄ばんでいたけれど、今後も現状維持でいくつもりだった。
「ごめんなさい止めて下さいどうぞこの手を好きになさって下さい」
渋々と両手を差し出せば、にっこり綺麗な笑顔を貼りつかせた総司が悪戯をするでもなく、唐突にそれを握り締めたから面食らった。
掌から伝わってくる少し高めの体温に、私の顔の温度も上昇する。
なにこれ、恥ずかしいんだけど。
振り解こうとしても、ぎゅうと力を籠めた大きな掌はそう易々と私を逃がしてくれそうにない。
余りにも突飛なその行動の意味を探して、その瞳の奥を覗きこんだけれど、翡翠色には困惑気味に眉を下げた私の顔が映るばかり。
その手の意図を問いただそうと口を開きかけた瞬間、ぐらりと眩暈に襲われた。
あっという間に視界は暗転し、自分の血液の音だろうか、轟々と流れる騒音に鼓膜が忙しなく震える。
さっきまで私の脳内の大半を占めていた総司の手の感覚はなくて、それどころか、五感全てがどうにも曖昧だった。
(なに――)
宇宙になんて行ったことはないけれど、無重力ってこんな感じだろうか。
自分が溶けて、空気になってしまったような感覚。
気持ち悪くはないけれど、どうにも覚束ない。
貧血性の眩暈とはまた違う不思議な感覚に戸惑っている内に、じわり、足の裏に畳の感触が甦った。
それと同時に飛び込んできた明るい光で、ちかちかと目が眩む。
詰めていたらしい息を勢いよく吐き出すと、反動で空気が鼻孔に流れ込んできた。
(あれ?)
その空気が先程とは少し違う気がした。
他人の家へお邪魔させて貰った時のような、見知らぬ部屋の香りがする。
けれど、眩暈を起こした一瞬でどこか別の場所へ移動してしまうなんてそんな夢みたいなこと――
「ほんとに来ちゃったね」
笑いを噛み殺すような、呆れているような、複雑な感情を混ぜこぜにした総司の声。
視力の戻り始めた目で慌てて部屋の中を見回すと、そこは本当に見知らぬ部屋だった。
「……どこ、ここ」
「どこだと思う?」
にんまりと笑むその顔が、私の悪い予感の的中を肯定している。
まさか、そんな。
「別に歓迎はしてないけど、ようこそ新選組の屯所へ」
あああ、後生だから誰か悪い夢だと言って下さい。
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