035 時渡り▽side:総司
ああ、今夜もまた月が昇ったな。
そう思いながら空を眺めていたら、慣れ親しんだ感覚がジワリと僕の五感を支配した。
なんだ、まだ終わりじゃなかったんだ。
安堵とも呆れともつかない感情に身を委ねる。
視界が反転し、闇に閉ざされる直前、一瞬だけ視界の隅に桜色が見えた気がしたけれど、それを確認する前に、僕の身体は闇の中に落とされていた。
闇の中を通り過ぎる間に聞こえる轟音が、膨大な声の集合体であることに最近気づいた。
それは、しわがれた老人の声だったり、高い幼子の声だったり、穏やかな男の声だったり、喧しい女の声だったり。
ひとつひとつの声は本当に微かで、何を言っているかは聞き取れない。
何か一言でも聞き取ろうと意識を集中させると、途端に視界が開けて彼女の顔が見えてくる。
「来たんだ」
驚きの混じった声。
うん、この声はよく聞こえる。
「来たみたいだね」
僕の声もちゃんと彼女に届いているんだろうか。
そう思いながら山彦みたいに彼女の口調を真似て返した。
「もう来ないかと思った」
先月は、来なかったから。
その言葉に同意する。
僕ももう、ここには来ないんじゃないかって思ってた。
「やっぱり雨が降ったからかな」
独り言のように彼女がそうごちる。
「雨の日は、こっちに来れないのかもね」
今度は、僕に向けて美緒ちゃんはそう言った。
確かに、この前は日暮れ前迄ぱらぱらと雨が降っていた。
結局、暮六つの鐘が鳴る頃には雲も晴れていたんだけどね。
彼女の口調からして、こちらでも降っていたらしい。
此方と彼方が雨が降るとここには来れない、か。
じゃあ、どちらか一方だけが雨だったらどうなのだろう。
雪だったら?
(まぁ、そのうち分かるかな)
答えの出ない考え事よりも、彼女の手元にある不可思議な‘それ’の方が僕の興味を惹いていた。
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