032 満月の空▼side:美緒
‘沖田総司’が急に立ち上がったからぎょっとした。
無言のまま彼は廊下に出る。
一体どこへいくつもり――?
「待って」
慌てて声をかける。
けれど、私の声を無視して素足のまま庭に下りると、そのままゆっくりした足取りで中庭の方へ消えて行った。
私も立ち上がって後を追う。
外に出てしまうのだろうと思った。
それはマズイ。
いくら夜だからって、いや、夜だからこそ、刃渡りが腕の長さほどもある大きな刀を持ち歩いていたら危ない。
確実に不審者で、確実に職務質問だ。
どこから来たか、なんて聞かれたらまず真っ先に「過去から」なんて頓珍漢な事を答えて(まぁ事実なんだけど)、その後、お巡りさんたちの途方もない苦労の末に私の名前が挙げられるんだろう。
疲れ果ててぐったりしているお巡りさんと、真っ黒い笑顔でニコニコしているあいつ。
あああ、うん、その場面が目に浮かぶようだ。
ていうか、あいつは満月の夜にしかこちらに来ないから良いとして、探しても見つからない銃刀法違反の不審者を匿ってることになる私はどうしたら?!
公務執行妨害になるのか?
それとも共謀?
いやいやいや困る困る。
私だって自分の身が可愛い。
さっきまで自己嫌悪で死にそうだったけど、この頭は結構現実的で切り替えが早いらしい。
翌日筋肉痛必至の猛然ダッシュを覚悟して中庭に回った。
門の先へと消える、着物を予想しながら。
けれど、予想に反して、中庭の隅のベンチに座るその姿を見つけた。
ぼんやりと空を見上げている。
その横顔が綺麗で思わず息を飲んだ。
月から降ってくる青い光を受け止めるその顔は、陶器で出来た人形みたいに、どこか現実離れしている。
翡翠色の猫目が余りにも熱心に天を仰ぐものだから、ついつられて私も空を見上げた。
夏の夜空にはどこか輪郭が滲んで見える円い月。
雲にさえぎられることのない明るい淡い黄色には心を解してくれる力があった。
甘い柔らかい光が、私を励ましてくれているように感じる。
うん、彼が外に出る気がないなら走らなくても大丈夫。
深呼吸して、落ち着いて、ちゃんと謝ろう。
彼の言う通り、私のやったことは最低だ。
彼のプライベートを覗くようなもの――勝手に他人の携帯の中身を覗くようなことをしたんだ、私は。
許してくれないかもしれないけれど、でも、ちゃんと謝りたい。
きゅっと強く掌を握り締めてから、中庭の隅のベンチに視線を戻そうとして私は硬直した。
すぐ目の前に、彼の姿があった。
その顔が――笑っている。
「な……んで、笑ってんの」
ん?そうだね――そう言う声が楽しそうだ。
状況が飲み込めずに私の頭の中は混乱する。
なんだか、泣きそうだった。
「ここに来る直前に、同じような場面に遭遇したなって」
「……同じ?」
「そう、僕が空を眺めてたら、君みたいにちょっと離れたところで同じように空を眺めてる子がいたんだ」
その子に近づいたのに、全然こっち向かないんだ。
暫く待ったんだけど、やっぱり空を見上げたまま。
面白いから至近距離でずっと眺めてたんだよね。
くすくすと楽しそうに笑いながら彼は語る。
「ようやくこっちに目を戻したと思ったら、僕がすぐ近くにいたのに驚いて固まってた。ほんとに、全然気付いてなかったんだ。すぐ近くにいたのに」
そりゃ、固まりもするでしょう。
‘その子’の心境を思うとため息が出る。
神出鬼没という言葉はこの男のためにあるんじゃないか。
「時々幽霊か忍者かと疑いたくなるくらい、あんたはとことん気配がないんだもん」
そう言ってやると、彼は小さく微笑む。
三日月を刻んだ綺麗な瞳がこちらをじっと見て来るから、心臓が変な音を立てた。
照れるからやめろ、そう言う前に先にその口が開く。
「僕の名前――知ってるなら、呼べば?」
あんた、なんて言わずにさ。
穏やかな声がそう言う。
その目に、さっきみたいな冷たい色はない。
なのに、私の心臓はさっきよりももっと強く、ぎゅっと潰れそうになる。
あああ、息が苦しい。
「……ごめん」
「どうして謝るの?」
「悪いと思ってるから。こそこそ素性嗅ぎ回るようなことして」
「別にもういいよ。中途半端な言い方した僕にも非があるしね」
「それでも、悪かったと思ってるんだ――っそ、総司」
さっきはあんなにすんなり口から出たのに、今度は少しつっかえた。
どうしようもなく恥ずかしくなって頬に熱が溜まる。
なんだこれ。
そんな私を笑って見下ろす彼には余裕の表情。
「なぁに、美緒ちゃん?」
耳朶をくすぐる甘い声を落としてきたそいつを、私は赤い顔のまま睨みつけた。
その余裕、ほんっと腹立つ――!
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