031 大きな誤算▽side:総司
「あんたも笑ってないで飲みなさいよ――総司」
彼女の言葉に耳を疑った。
「いま、なんて言ったの?」
本当ははっきりと聞こえていた。
なのに、敢えて聞き返した。
彼女が口にした言葉を確認したかったから。
彼女の答えを待つ間、僕の顔の筋肉がきしきしと硬くなっていく。
きっと、怖い顔をしている。
僕を見る彼女の目に恐怖の色が見え隠れしてるから、それが分かった。
「だ、だから、腹括って飲め「総司って――そう言った?」
誤魔化そうとした言葉に被せるように、追撃した。
気まずそうに目を伏せた彼女が、きつく唇を結ぶ。
暫く逡巡するような間が空いて、思い詰めるような少し強い目線が飛んできた。
「総司……沖田総司なんでしょ、あんた」
否定は、しなかった。
彼女の声に確信が満ちていたから。
「……どうして、分かったの?」
びっくりするくらい静かな声が出た。
彼女の瞳の中にあった強い光が影を潜めて、また恐怖の色が戻って来る。
それでも、彼女は重い口を開いた。
「あんたが、池田屋って言うから」
聞き覚えのある名前だと思って……気になって。
消え入りそうな声がそう呟く。
彼女の意図することに合点がいって頭が痛くなった。
旅籠の名前を伝えたくらいじゃ何があったかなんて分からないだろうと甘く見ていた。
別に隠し立てするようなことでもなかったけれど、わざわざ丁寧に教えてあげるような内容でもなかったから敢えて曖昧な言い方をしたのに――それが、裏目に出た。
却って彼女の興味を惹いてしまった。
とんだ誤算。
「ふうん、気になったからこそこそ隠れて調べたんだ。最低だね」
彼女の思考を読み切れなかった自分に腹を立てている筈なのに、口からは彼女を責める言葉が転がり出た。
そんな自分に苛々が増す。
しゅんと肩を落とした彼女から視線を滑らせて、開きっぱなしの‘ぱそこん’を視界に入れた。
そこに映し出されているのは、茶色い髪をした笑顔の女の子が大きな何かを頬張っている写真と、沢山の色鮮やかな文字。
そう、彼女には‘あれ’がある。
知りたい情報は何だって手に入れることが出来る、そう言ってたじゃないか。
僕は彼女を嘗めていた。
世間知らずで、何も出来ないと。
何を甘ったれたことを考えていたんだろう。
確かに異なる時代を生きてきた彼女との知識や感覚の違いには驚かされることも多々ある。
けれど、彼女は子供じゃない。
行動力もあれば、人並みの思考力だってある。
ただ、無邪気で無知な女の子だと、心のどこかで油断していた。
彼女の行動は決して褒められたものじゃないけれど、それでも、落ち度は僕にあるって分かってた。
でも、苛立ちを含んだ言葉の棘は増すばかり――
頭を冷やしてこよう。
立ち上がって、廊下に出る。
「待って」
彼女の声が後ろから追いかけてきたけれど、無視してがたがたと音を立てる薄い硝子の扉を開けた。
いま口を開いたら、また無様な八つ当たりをしてしまう――そんな確信があったから。
裸足のまま庭に下りる。
肌を撫でるひやりと湿った風を感じながら、ぐるりと家の周りを回り込めば、彼女の部屋に面している場所よりももう少し広い庭に行きあたった。
小さな池のほとりに置かれている竹で組んだ椅子に腰かけ、池の中の円い月を覗きこむ。
そんな僕に月影を見せまいとするかのように、赤色と黄金色の二匹の鯉が、水面を歪めながらゆうゆうと通り過ぎて行った。
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