030 石田散薬▼side:美緒
「こんばんは」
その声に、びくりと身体が強張った。
振り返れば、随分と穏やかな顔をしたあいつ。
体調も随分良くなってきているみたい。
小さく安堵すると、あいつが何者なのか確認しようという決意や緊張で縮こまっていた心がほんの少し緩んだ。
いつものように仏壇の前から勝手に座布団を引っ張って来た彼は、ローテーブルの前に胡坐をかく。
また何かしら悪だくみをしているらしく、その瞳はきらきらと光を集めて輝いていた。
「美緒ちゃん、どこか怪我したりしてない?」
急にそんなこと訊くものだから、私はぽかんとするしかなかった。
ええっと、質問の意図がよく分からないのですが。
怪我人はあんたでしょ?
自称、だけどね。
「ほら、なかなか治らない傷があって困ったなーとか、早く治したい傷があるのになーとかあるでしょ?」
あるでしょ?と言われても、まっとうな大人が、まっとうに生活していて怪我するような機会は滅多とない。
料理をすれば包丁でうっかりだとか、割れたグラスでうっかりだとかはあるだろうけど、そもそも私はほとんど料理なんてしないし――
「……ないの、怪我?」
いつまでも黙ったままの私に、ものすごく残念そうに問いかけてくるけれど、そんな顔したって、ああ在りました、なんてぽろっと怪我が出て来る筈もない。
「残念だけど」
「ないんだ。つまんないの」
ていうか、何なの?
なんで怪我を欲してるの?
自分にあるんだからいいじゃん。
充分じゃん。
そう言い返そうと思った私より先に、あいつが口を開いた。
「折角、石田散薬を試してもらおうと思ったのに」
いしだ、さんやく?
着物の懐から取り出された薬包紙を覗きこむ。
砂鉄みたいな真っ黒い粉が包まれているのが透けて見えた。
紙の包み方が、薬剤を院外処方していない、よぼよぼのおじいちゃん先生が診てくれるような病院で出される粉薬と似ている。
さんやく、のやくは『薬』という字を当てるのかもしれない。
ということは――
「あんた、私にそれ毒見させるつもりで――」
「やだな、人聞きの悪いこと言わないでよ」
にっこり綺麗に微笑んだ顔に、真っ黒い影が見えた。
図星だ。
絶対図星だったんだ。
「石田散薬は土方さんちに伝わる、何にでも効くありがたーい秘薬だよ?」
「じゃあ自分で飲めばいいじゃん。あんただって怪我人なんだから」
「嫌だよ。河原に生えてる雑草を黒く焦がしたものだなんて想像しただけで口の中が苦くなるでしょ?」
そんな不味そうなものを私に飲めと?
そう詰め寄ってやると、無邪気な笑顔が返って来た。
「だって美緒ちゃんは‘びいる’を平気で飲んでたでしょ?」
あんな苦くてピリピリするものが平気なんだから、石田散薬もきっと平気だよ。
そんなことをのうのうと言ってのけた。
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