暗い廊下の電灯をつけ、開けっ放しの縁側から吹き込んでくる涼しい風に目を細めてから、私は台所へ向かう。
ああ、ほんとに今夜は風が気持ちいいな。
あと十日ばかりで五月も終わる。
きっと、数日もしないうちにこの乾いた風はじめっとした梅雨の空気に侵されてしまうんだろう。
(あーあ、梅雨かー)
ほんの少し、憂鬱な気分になる。
ああ、そう言えば来月は友達の結婚式もあるんだったっけ。
ジューンブライド、なんて響きはいいけれど、天気の不安定な季節に一張羅のドレスで出掛けること程憂鬱なこともない。
(ドレスはまだいいんだけど、パンプスが濡れると悲惨だなー)
淡いゴールドのパンプスは表面が総レースになっていて、落ち着いた可愛らしさが気に入っていた。
けれど、一度雨に降られた時は跳ねた泥がレースとレースの隙間に入り込んでこびりつき、なんとも悲惨な状態になった。
あのパンプスほど手持ちのドレスに似合う靴を未だに見付けられていなかったから、また雨になることを考えると、おめでたい気分よりも自分の手間を思ってしまう。
どうか降りませんように。
ちょうど天頂辺りで円く輝いている月に願を掛けながら、小さな赤いケトルを火をかけた。
少し多めのお湯を沸かす間に戸棚から湯呑みを探す。
お客さま用の薄口の湯呑みに手を伸ばしかけて、止めた。
わざと手を滑らせるかも、なんて言葉を思い返しす。
いやいや、危ない危ない。
一脚二百円で叩き売りされていた安物の湯呑みを二つ取り出して盆に並べる。
押し掛けてきた客にはこれくらいの扱いで充分!
その中に、一包ずつさっき手渡された葛粉を入れておいて、カタカタと自己主張を始めたケトルから熱々のお湯を注いだ。
家では専らビールばかり飲んでいるから、マドラーなんてお洒落なものはこの台所にはない。
その辺に転がっていた先月の残りの割り箸をマドラー代わりにして、湯呑みの中をぐるぐるとかき混ぜ……あ、あれ?
昔、ばあちゃんが作ってくれた葛湯はもっとこう、綺麗なムラのない透明だったような気がする。
なのに、今私の手元でぐるぐると回っているそれは、ダマだらけで白く濁っていた。
慌てて携帯で葛湯の作り方を調べる。
ええっと――……
葛湯の作り方が書かれたサイトを読み進めて行くと、幾つかの注意事項がリストアップされていた。
・器はよく温めておくこと
・ダマを防ぐためにまず少量のぬるま水で溶かすこと
・よく溶けたものに熱湯を注ぐこと
・砂糖は出来るだけ最後に入れること
※透明にならなかったり、とろみがつかないのは過熱が足りません!
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あぁ、うん、なんかごめん。
携帯に向かって謝る。
砂糖は仕方ないにしても、悉く正しい作り方を逸脱していたわ、私。
どうしたものかな、これ。
ダマだらけの湯呑みを見下ろす。
何か救済措置はないのか、救済措置は。
ページの後半までスクロールすると、※失敗した時は……なんていうありがたい文章があった。
※失敗した時は……
電子レンジで数秒程過熱し、よく混ぜましょう。
透明になるまで繰り返せばOK!
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ああ、意外にも簡単にリカバリー出来るのね。
湯呑みをそのまま電子レンジに入れ、スタートボタンを押す。
数秒を待つ間に割り箸に絡みついていた葛湯の成り損ないをそっと指ですくって舐めてみた。
「……んん?」
甘くない。
全然甘くない。
昔は砂糖が貴重品だったから、こんなに甘い葛湯を飲めるお前は幸せだねとばあちゃんはよく言ってたけど――ここまでとは。
電子レンジでいい具合に加熱され、依然としてダマは少し残っていたけれど、どうにかとろみと透明度を得た葛湯にこれでもかという程砂糖を加えてやる。
現代人の財力を思い知れ、権兵衛(仮)め。
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