僕だって、昔は用を足した後に手を洗っていたんだ。
渋々、ではあったけれど。
その辺は親代わりに育ててくれた姉さんが、割と厳しい人だったからね。
大人としての礼儀だとか、武士の心得だとか、何とか。
今から思えば、完全に騙されていたと思う。
だって、近藤さんは立派な大人で、立派な武士だけれど、厠の後には手を洗わないんだから。
それでも、幼かった僕は姉さんの傍を離れてもまだ忠実に言いつけを守っていて。
だから、連れ立って用を足しに行った後、近藤さんが手を洗わずに部屋に戻ろうとしたのを見て首を傾げたんだ。
「どうして手を洗わないんですか」
思わずそう口にした僕は、きっとものすごく不思議そうな顔をしていたに違いない。
けれど、そんな僕を目の前にした近藤さんの方が、もっと不思議そうな顔だった。
まるで、何を問われているか分からない、そんな風な。
「厠から出た後はすぐ手を洗うようにって姉さんが」
自分の意図を伝えたくてそう言ったけれど、すぐにそれを後悔した。
これじゃまるで、姉さんの言いつけが全てだって思っている小さな子供みたいじゃない。
けれど、そんな僕の後悔になど微塵も気付いていない様子で、近藤さんは眉尻を下げ、困ったようにがしがしと頭を掻いた。
「いや、すまんすまん」
つい、面倒でなぁ。
そう言って大らかに笑いながら、宗次郎は几帳面だと僕の頭を撫でた。
撫でてから、じゃあ手を洗いに行こうと言うものだから、思わずかくりと力が抜けた。
「洗うも何も、そう色んなところを触ってしまったら今更ですよ」
「む。それもそうか」
なら次の機会にしよう。
歌うようにそう言って笑う近藤さんにつられて、僕も思わず吹き出した。
近藤さんの“次の機会”があったのかどうかは分からないけれど、それ以来、何となく僕も近藤さんを見習うようになってしまった。
お陰で、姉さんにはたっぷり叱られたけれど、結局、今に至るまで直っていない。
でも、それでいいんだと思う。
だって、屯所の中で厠の後に手を洗う人なんて滅多といないんだし。
実行する人がいないってことは、合理的じゃないってことでしょ?
そんな酔狂をやってのけるのは伊東さんくらいじゃないのかな。
別に、何か汚いものを触っている訳でもないしね。
「――もう、聞いてる?」
「え?……うん」
美緒ちゃんの声にはっと我に返れば、適当に返事をしたことなどお見通しだと言わんばかりに僕をジト目で凝視してくる。
「ちゃんと聞いてたから、耳にタコが出来そうだよ」
そんな軽口を叩けば、こちとら口にタコが出来そうだと言い返された。
口にタコだなんておかしな言い回し、聞いたことないよ。
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