089 蛙の子は蛙▽side:総司
「まさか厠に行った後手を洗うなんて、そんな面倒臭いこと僕がすると思う?」
そう言った瞬間の美緒ちゃんの顔ったらなかった。
まるで幽霊を見た時のような、信じられないっていう目。
一拍置いて「離せえええええ!」だなんて絶叫が響く。
そんなに嫌がられると、余計に離したくなくなるんだよね。
僕の手を払いのけようと挙げられた美緒ちゃんの手を掴んで、こちらに引き寄せる。
逃げられないように半ば抱きしめるような格好で彼女をしっかりと捕まえて、その髪を撫でた。
途端に美緒ちゃんの身体は硬直し、動かなくなる。
そのまま彼女は、大人しくされるがまま。
抵抗されないっていうのも、ちょっとつまらないな。
そう感じ始めた僕の腕から、唐突に彼女が飛び出したのは、ほんの一瞬の出来事だった。
「……れ」
「うん?」
「そこへ直れえええええい!」
びっと立てた指で布団の上を示す。
少し悩んでから、従ってあげるもまた一興、とそこへ正座した。
このままからかい続けたら、怒り狂った美緒ちゃんの頭が沸騰して弾けてしまいそうだったしね。
僕の前に仁王立ちした美緒ちゃんは、ぎらぎら光る目玉で僕を見下ろしながら低い声を出す。
「何故洗わない」
その問いには答えずに微笑み返したら、再度「何故手を洗わない」と一層低くした声で問い質された。
「だからさっきも言ったでしょ。無駄なことはしない主義なんだよ」
「無駄、じゃなくて面倒なだけでしょうが」
「そうとも言うね」
「そうとしか言わない!」
僕の目の前に、同じくぽてりと正座した美緒ちゃんがとうとうとお説教を始める。
やれ用を足した後は手を洗えだの、外から帰ったら手洗いうがいを徹底しろだの云々。
なんだかそのお小言の数々に既視感を覚える。
ええっと、これはなんだったっけ。
彼女の言葉を聞き流しながら、古い記憶の中をなぞる。
しばらく迷走してから、ひとつの答えに辿り着いた。
ああ、そうだ。
試衛館に預けられてしばらくの後、久しぶりに会った姉さんからの説教とそっくりなんだ。
そのお説教に辿り着くまでの件を思い返すと、勝手に口元が綻んだ。
「ちょっと、真面目に聞きなさい!」
不満げな美緒ちゃんの声に適当に相槌を打ちながら、僕は記憶の中へと沈んでいく。
多摩のあの道場での近藤さんとの会話を思い出しながら。
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