かち、かち、かち。
部屋の中にはキーボードを叩く音と、マウスのクリック音と、微かな雨音。
目の乾き、肩の痛み。
全部どうでもよかった。
私の全神経は、ただ、パソコンの画面の上だけにあった。
なのに。
(……ダメだ)
文字通り血眼でディスプレイに張り付いていたせいか、或いは尋常じゃない焦燥感のせいか、ぐるぐると眩暈に似た気持ち悪さを覚えて、キーボードの上に突っ伏した。
奥歯を噛み締めて吐き気に耐える。
これは、私一人の力じゃ、無理。
どの薬も医者の処方がなければ手に入らない。
それは、一番欲しくなかった絶望的な答えだった。
これまでに、沢山の人の命を奪ってきた病。
未だに、沢山の人の命を奪い続けている病。
そんな危険性の高いものを潰す強い薬が、簡単に手に入る筈がない。
素人判断で飲ませられるようなものの筈がない。
冷静になればすぐに分かることだろうに、進歩した時代に生きている、欲しいものなら何でも簡単に手に入る時代に生きている、なんていうアドバンテージに高揚して、浮かれていた自分の浅はかさが悲しい。
思い上がりも甚だしい。
何でも手に入る、そんな訳ないのに。
総司を診てくれる、薬を処方してくれる医師が必要だった。
けれど、それは簡単なことじゃない。
満月の夜にだけ現れる、それが最大のネック。
病院に行けさえすれば、治る病気なのに。
この時代の人間じゃない彼には、それは途方もなく難しいことだった。
夜間救急に飛び込めば診てもらえるだろうか。
ううん、きっと朝まで待てと言われるのが関の山。
待っている間に総司は消えてしまう。
患者がどこへ消えたのか、それを問われて、真実を告げたところで納得してもらえるとも思えない。
第三者なら、きっと私だって信じない。
せめて半年、総司がここに留まれたら。
たった一ヶ月でもいい、昼夜問わず継続してここに居られたら。
そんな詮無い事を夢想してしまう。
けれど、夢を見ていたって仕方がない。
動かなければ、何も変わらない。
遅い時間まで開いている病院を探すことが急務だった。
それからお金。
健康だと普段はそれほど意識しないけれど、医療費って結構高い。
結核の治療費は国が負担してくれる、どこかにそう書いてあったけれど、総司はここの人間じゃない。
保険証を持ってない。戸籍だってない。
公費には頼れない。
長期の治療、となるとどれくらいお金がかかるんだろう。
数十――いや、数百万単位、だろうか。
社会人になったばかりの頃だったかな。
病院に行ったのに、いざ支払いの段階で保険証が見つからなくて、全額負担したことがある。
ただの風邪で、診察は簡単な問診と点滴程度だったのに、目の飛び出るような金額を請求されたことが未だに忘れられない。
あの時は、後から諸々の手続きをしてもらって過分の負担金は返ってきたけれど、今回はそういう訳にはいかない。
貯蓄に余裕がある訳じゃないし、ギリギリまで切り崩すのはちょっと不安。
だけど、人命には代えられない。
総司が助かるのなら、安い。
一体何の義理があってそこまでするんだ、なんて、自分の必死さに失笑する。
噛み締めていた歯の奥で、くっと喉が鳴る。
いつの間にか、私は総司に情が湧いてしまっていた。
もうすぐ二年。
出会ってから、二年になる。
たかが二年、されど二年。
満月の夜にだけ現れるあいつとの時間が、日常の一部になっていた。
あの時間がなくなるだなんて考えたくない。
あのバカが死ぬなんて、考えたくない。
まだ、一緒に居たい。
もっとずっと先まで一緒に笑っていたい。
それが叶うなら、多少のことは厭わない。
そんなことを願ってしまう程に、あいつの存在は大きくなっていた。
(へこたれてる場合じゃない)
鈍く痛む頭を持ち上げて、もう一度画面に目を落とす。
開いたままになっていたのはどこかの呼吸器内科が運営しているホームページ。
特に目ぼしい情報もなさそうで、斜め読みしながらからからと画面をスクロールさせる。
その終着点に書かれた、小さな青い文字の上で目が止まった。
『肺がボロボロになってからの治療は難しい』
だから、早期治療が大事だよ。
薬を手にして、満面の笑みをこちらに向けているお医者さんのイラストが添えられている。
どきり、と心臓が嫌な音を立てる。
総司は――一体いつから病気の症状があったのだろう。
今、どれだけ進行しているんだろう。
まだ、肺は、身体は、ボロボロになんてなってないよね?
手遅れじゃないよね?
これまでに見てきた内容から分かる典型的な症状は、咳・発熱・寝汗・喀血……
皮膚に感染が広がれば発赤、腸に達すれば栄養失調による体重減少。
総司はどうだったろう、今までを思い返す。
少なくとも、私から見える範囲の皮膚に何か異常があるだとか、目に見えてやせ細っているとか、そういう様子はなかった。
けれど時々、咳をしていた。
いつもダルそうにしているから、身体がキツくてだらだらしていたのか、ただだらけていただけなのかはよく分からない。
たまに触れる掌は熱くて、体温の高い奴なんだと思っていたけれど――微熱、だったのかもしれない。
判断材料にするには不十分な、あやふやなことばかりだった。
ただひとつだけ、確実に言えるのは、
(喀血が、あった)
それだけ。
去年の夏だ。
酷く咳き込んだ総司の腕を、鮮血が一筋、スローモーションみたいに垂れていったのを今でもはっきり覚えている。
それが末期症状だと書いているところもあれば、初期症状でもあり得ることだと書いているところもある。
どちらを信じればいいか、私には分からない。
けれど、最悪の場合を想定しておく方が、いざというときマシな対応が出来そうな気がした。
最期が、近い――?
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