001 暁の雪▼side:美緒
明け方に、喉の渇きで目が覚めた。
ぼんやりと滲む天井はほの暗い。
枕元に置いた携帯に表示されるデジタル時計も、日が昇るにはもうしばらく時間があることを教えてくれていた。
少し逡巡してから、意を決して布団を抜け出す。
足をつけた畳から、ひやりと冷気が上がってきて、思わず身を縮めた。
布団の中に戻りたがる心を励ましながらカーディガンを羽織り、障子戸に手を掛ける。
するりと開いた隙間から、真っ白い光が視界に飛び込んできた。
(あああ、寒い筈だ)
この冬何度目かの雪が、庭を白銀色に染め上げている。
雪雲は既にどこかへ去った後のようだった。
西に傾く円い月が放つ、甘い黄金色が目に優しい。
きしきしと悲鳴をあげる古い床板を踏みしめ、どこか得した気分を味わいながら、私は台所に向かった。
祖母から譲り受けたこの大きな屋敷は、もういっそ時代錯誤だと言ってしまっていい程に古めかしい造りだった。
フローリングと呼べるような様を呈した部屋などひとつもない。
土間か、畳か、板の間か。
真鍮のネジ締まり錠がついた薄いガラス窓や、モザイクタイルの洗面台も、昨今ではなかなかお目にかかれない代物だ。
今夜みたいに少し寝惚けた頭で家の中を歩けば、余りにも現実離れしていてまだ夢の中に居るような錯覚に陥る。
土間になっている台所に下り、冷蔵庫の低い唸り声を聞きながら冷たい水を喉に流し込んだ。
胃に滑り込んだ液体の冷たさに息を詰める。
震えながら小さく息を吐いて、空になったグラスをテーブルの上のお盆に伏せた。
室内だというのに呼気が白い。
じわじわと指先が冷え始めているのに気付いて、慌ててサンダルを脱ぎ、廊下に上がる。
依然として、窓の外は雪明りでぼんやりと明るい。
けれど、日が昇るまでにはまだ時間がある。
もう暫くは眠れるだろう。
温かい布団を恋しがる手足が、自然と部屋へと急いだ。
きしきしと来た時と同じ様に廊下を鳴らしながら部屋の前まで辿り着き、障子戸を開ける。
廊下から差し込んだ光の中に浮かび上がった影を見つけて、ぎょっとした。
誰か、居る。
慌てて障子を閉める。
この家で暮らしているのは私だけだ。
なのに、部屋の中には一人分の影が横たわって見えた。
私よりひとまわり大きな影ひとつ。
見間違いだろうか。
この古い家が侵入者を黙って受け入れる筈がない。
たてつけの悪い戸は、少しでも引けばガラガラと大きな音を立てる。
どの床も老朽化していて、歩けばきしきしと鳴く。
けれど、私が部屋と台所を往復する間にそんな音は聞こえてこなかった。
(寝惚けたかな)
誰かが居る、なんてあまりにもありえない状況に、度胸がついた。
再度、障子戸を滑らせ部屋を覗きこむ。
やはり、見間違いだったみたいだ。
美緒が部屋を出た時のまま、そこには一組の布団が敷かれているだけだった。
(ばかみたい)
誰か居るだなんて、そんな筈ないのに。
間抜けな自分を自嘲的に笑う。
早く布団に戻ろう。
指先がすっかり冷えてしまった。
一歩部屋に足を入れた瞬間、視界の隅を何かが横ぎった。
あれ、と思う間もなく口を塞がれ、喉に当てられたひやりと冷たい感触に肌が粟立つ。
(なに!?)
口元を覆う掌が大きい。
頭頂に近い後頭部に微かに触れているのは相手の顎か。
だとすれば随分背の高い――男。
強盗だろうか。
頭の芯が急速に冷えていく。
膝がわななき始める。
――怖い!
そう思った瞬間、男は小さく囁いた。
「ねぇ、僕の刀をどこへやったの?」
予想外に若く、甘い声。
私を絡めとる殺気を孕んだ腕とは裏腹の、幼い子供に言い聞かせるような声音にふと気が緩んだ。
刹那、視界が白く溶けた。
それが、彼との出会い。
全ての始まり。
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