望月の訪問者 | ナノ

080 君と出会った理由


▽side:総司



「……っ、けほ」



あ、不味いな。

そう思った時にはもう遅くて、盛大な発作に慌てて口元を押さえる。

ぬるりと口いっぱいに広がる鉄の味。

激しく咳き込みながらも、目だけで周囲を確認した。

誰も居ないことに安堵する。

ぽたり、掌が受け止め切れなかった滴がひとつ、廊下の床板に小さな紅黒い花を咲かせた。

それを爪先で擦り取りながら、懐の手拭いを探す。



「お前さんの病は労咳だ」



近藤さんが意気投合したという松本先生が健康診断にやって来て、僕にそう告げたのはつい先日のこと。

夏前から熱が続いて、いつまでも治まらない咳に、なんとなく予想はしていた。

喉が傷ついて血が出た。

そう誤魔化せば、大抵の人が納得してくれたけど、千鶴ちゃんみたいに、腑に落ちないって顔をする人もそう少なくはなかった。

それでも、何も言わずにいてくれた。

そのことはとても感謝してる。

だって、新選組を離れて永らえる命なんて欲しくない。

僕は、今ここで生きていたいんだから。



井戸端には誰もいなかった。

そりゃそうだよね。

そろそろみんな、床についてるだろう時間だし、こんな時間に動き回っているのは僕と彼ら――羅刹くらい。

井戸で手を洗い、赤く染まった手拭いと気持ち悪い口の中を濯ぐ。

冷えた水が熱で火照った口内を優しく撫でるのが気持ちよかった。

幸いなのは、“これ”をまだ近藤さんや土方さんに知られていないってこと。

過保護な二人のことだから、この事を知られたら、今度こそ江戸に帰されてしまうかもしれない。

大人しく二つ返事でその命令に応じるつもりなんてさらさらなかったけれど、近藤さんに本気で帰れなんて言われてしまったら――僕は僕の存在する意味を見失ってしまう。

役に立たないから要らないと、そう切り捨てられてしまうことと何も変わらない。

それならもういっそ、本当に斬り捨てられる方がずっと楽だ。

そうすれば、無駄なことを考えることもなくなるだろうから。

井戸水に濡れたままの掌を強く握り締め、ゆっくりと開く。

手のちょうど真ん中に、点々と三日月型の紅い爪痕が残った。

いずれこの手は力を失う。

こうやって自分自身に痛みを残すことすら出来なくなる。

その前に、少しでも近藤さんの役に立てるだろうか。

要らないと切り捨てられてしまう前に、僕はあの人の剣となって死ぬことが出来るだろうか。

せめて、あとどれくらい命が残っているか――あとどれくらい動くことが出来るのか、それを知ることが出来れば良いのに。

そんなことを考えていたら、ぐらりと視界が揺れる。

ゆっくりと世界が反転する刹那、遥か天空に、白く円い月が見えた。

やがて、その輪郭が溶けて、沈む。

音と闇に満ちた洞穴を通り抜けた先、明るい光の中に、ひときわ鮮やかな朱色が見えた。

それは僕の身体をひんやりと侵す、どろどろとした禍々しい紅じゃなくて、もっと生気に満ち溢れた、お天道さまみたいな朱。

焦らすように絞られていく焦点がようやく像を結んだ時、その朱色が正体を現す。

それは、美緒ちゃんの手にした朱い結い紐で、それをこちらに差し出しながら、怒ったような、困ったような、どうにも曖昧な表情を織り成す血色の良い彼女の唇の色だった。

そんな美緒ちゃんの顔を見て、ふと唐突に、出会った頃の彼女が発した言葉を思い出した。



『私の知る沖田総司は、病弱な美少年剣士だったって』



確かにそう、言ったじゃないか。

ああ、そうか。

神さまはまだ、僕を見捨ててなんかいなかった。

きっとこの為に、僕は彼女と出会ったんだ。

その為に、僕はここに来ていたんだ。

何だか心底嬉しくなった。

ずっと考えていたなぞなぞが解けたみたいに、すっきりした。

僕のしようとしていることは狡いことだ。

本当なら、不本意なことだよ。

でもね、

僕は僕の望みを叶える為に、そのズルをしなくちゃいけない。

目の前の手を朱い紐ごと掴むと、僕は美緒ちゃんに向かって、ゆっくりと笑顔を作った。


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