078 ハーフアップ▼side:美緒
「うわ、ひっどい」
子供みたいにくすぐり合って、散々庭を転げ回ってから気付いたのは、夜露がすごいってこと。
私も総司も、夕立に降られたみたいにびしょ濡れだった。
「あーあ」
濡れて尚、淡いきらめきを失わない茶色の髪を指先で掬い上げながら、総司はまた少し笑った。
私も同じように頬に張り付いた髪を指で梳く。
ひんやりと濡れた首筋に、夏の蒸し暑い風すら心地よかった。
「美緒ちゃんってホント時々ものすごく子供っぽいことするよね」
揶揄するような色を含んだ声でそう言いながら、総司はちゃぷちゃぷと池の中に浸した手を遊ばせる。
どっちが。
そう言い返してやりたかったけれど、青い月の光の下の彼が余りにも綺麗だったから、私は何も言えなかった。
ただ黙って髪を梳く。
髪留めを使わずに流しただけの毛束は、まとめてもまとめてもはらはらと散らばる。
なぜだか急に乱れた髪型を見られるのが恥ずかしくなって、私は必死で自分の髪を押さえ付けていた。
月が雲陰に隠れて少し辺りが暗くなると、微かな安堵に似た感情が湧く。
ああ、もうそのままでいて。
余りに明るい夜だと、みっともない姿を見られてしまうから。
こんな時に限って敏いあいつは、私の様子に気付いたのか、瞳をこちらに向ける。
じっと、静かな翡翠色が私を閉じ込める。
きっと、私が見られたくないってこと気付いてる。
相変わらずの意地悪に思わず俯いた。
なんだか、今夜は変だ。
格好悪い自分を総司に見られたくないだなんて、そんなこと考えるなんて。
今更、過ぎる。
今まで気にしたこともなかったのに。
でも、もし今「美緒ちゃんの髪、ぐっしゃぐしゃ」そんな風に言われたら、ちょっとしばらく立ち直れないかもしれない。
だってそうでしょ?
水も滴る何とやら状態のキレイな人にそんなこと言われたら、ザックリ抉られる。
そう、総司がキレイ過ぎるのがいけない。
一度それを知覚してしまうと、一緒にいてものすごく落ち着かない気分になる。
ああ、もう。
取り敢えず今は、頼むから何も言うな。
祈るような気持ちでいたら、微かな衣擦れの音と共に、総司が近づいてくるのが分かった。
ふわりと空気を揺らす気配の後に、びっくりするくらい優しい手が私の手から濡れ髪を取り上げた。
「なに」
「動かないで」
なんとなく抗えない響きでそう言われて、為すが侭にされながら少し待つ。
誰かに髪触られるのなんて久しぶりだな。
昔はよく、ばあちゃんが結ってくれた。
すごく器用で、友達の髪型が羨ましいって言ったら、見よう見真似の筈なのに、そっくり同じにしてくれたっけ。
嬉しかったけど、最後に仕上げに結んでくれるのは可愛いレースのリボンじゃなくて、和のテイストたっぷりな結い紐だったのが不満だったな。
可愛いリボンがいい、そう言って膨れる私をたしなめてから、「皆と同じじゃつまらないだろう」なんて悪戯っぽく笑うのがばあちゃんのお決まりだったっけ。
あの時は意味がわからない、なんて思っていたけれど、思い返せばなんてカッコいい台詞。
男前過ぎるでしょ、なんて回想にふけっていると、勝手に口元がニヤける。
「何笑ってるの」
ほら、出来たよ。
そう言って、ぽんと優しく頭を叩かれる。
怪しい思い出し笑いをばっちり目撃されていた気恥ずかしさに、少しだけ顔を歪めながら、私の頭に手を置いたままの総司を見上げた。
「何なの?」
「髪、邪魔そうだったから」
そう言われて、ゆっくりと手を伸ばすと、思ったよりもずっと丁寧に自分の髪が結われているのが分かった。
「どう?」
「どうって言われても……」
鏡がないんだから、確認のしようがない。
そう言いかけたら、まるで先読みしたみたいにニコニコ笑顔の総司が家の方を指差した。
ああ、どうして今日の私はこんなに従順なんだ、なんて心の中で悪態をつきながらも、促されるままに振り返れば――ああ、そいうことかと得心する。
暗い部屋を背景にしたガラス窓は、ちょうど鏡の役目を果たしていて、月明かりだけでは少し暗かったけれど、自分の髪型が今どんななのかを把握するには充分だった。
ハーフアップにした髪は、少し毛先を長く残してくるりとゆるくまとめられている。
それは――
「見覚えのある髪型、なんですけど」
「そう、僕と同じ」
美緒ちゃんの方が少しだけ長いけどね。
悪戯っぽい笑顔の発した言葉に思わず脱力する。
なんでわざわざ同じ髪型にするかな、こっちの気も知らないで。
盛大にため息を吐く。
「気に入らなかった?」
その声に慌てて口元を押さえた。
違う、そういう意味じゃない。
「や、その、気に入らないって程でも」
「そう?」
ならいいけど。
そう言ってから、総司も自分の髪を結い直し始める。
ああもう、なんで素直にありがとうって言えないかな、私。
可愛くない。
また吐きたくなったため息を、今度は寸でのところで飲み込む。
これ以上の失態は許されない、そんな気がした。
今夜の私は変だ。
ついさっきまで、普通だったのに。
ふと、頬に視線を感じて顔を上げれば、さっさと頭を整えてしまった総司の、こちらを覗きこむ翡翠色とぶつかった。
穏やかなそれは、黙ったまま私を見つめてから、微かに笑う。
「うん、大丈夫。似合ってる」
その言葉を合図に、体温が一気に頬へと集まった。
そんなの反則だ、ばか。
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