077 濡れ髪▽side:総司
「ぎゃあ」
蛙を踏みつぶすような、色気の欠片もない短い悲鳴を最後に、美緒ちゃんはどさりと夜露に覆われた庭へと倒れ込んだ。
そのまま起き上がってこない。
服が濡れるのもお構いなしに寝転んだまま天を仰いでいる。
木刀を振る手を止めて、乱れた呼吸を整えながらそんな彼女を見下ろした。
苛めぬいた彼女の細い両の腕は微かに痙攣していた。
当たり前だ。
もうかれこれ半刻ほど素振りを続けている。
刀の握り方で、明らかに素人だって分かる彼女がまさかここまで粘るとは思っていなかった。
こんな状態になるまで彼女に稽古させたのは他でもない僕だけど、泣き言のひとつでも口にすればそこで解放してあげるつもりだった。
一応、女の子だしね。
けれど、予想に反してしぶとかった。
ぶちぶちと文句を垂れ流しながらもその顔にはどこかまだ余裕が残っていて、促せばまた木刀を握る。
なんだかそれが面白いような面白くないようなで、ついこちらもムキになった。
壬生寺で‘彼’に打ち手を頼んだ時も、もう少し手加減してあげたような気がする。
そんな自分に思わず苦笑が漏れた。
「腕、ちゃんと揉んどきなよ」
明日、辛くなるから。
そう言いながら彼女の傍に腰を下ろすと、恨めしそうに睨まれた。
その強い視線にまた笑みが零れる。
彼女が男なら、きっと面白かっただろうな。
そんなあり得ないことを夢想する。
でも、しぶとい子は嫌いじゃない。
剣の才能はいざ知らず、それだけ根性があればそれなりの使い手にはなれるだろう。
浅葱の隊服を纏って剣を振るう美緒ちゃんを思い描くと、可笑しかった。
まだ乱れたままの呼吸を割いて、くつくつと笑いが漏れる。
反面、彼女が男なら、きっと僕はつまらない。
理由なんて分からないけれど、彼女が女の子で良かったと、意識の片隅で安堵している僕がいる。
「ねぇ美緒ちゃん」
こんな時間なのに、どこか遠くでしゃわしゃわと蝉が鳴いている。
それを聞きながら星の見えない明るい空を見上げ、彼女の名前を呼ぶ。
返事はなかったけれど、彼女が次の言葉を待っているのが気配で分かった。
「意地悪して、ごめんね」
僕の言葉に彼女が弾かれたように起き上がる。
「……なにその顔」
目も口も丸く見開いて、まるで幽霊を見たような彼女の顔がそこにあった。
その頬に“信じられない”と書いてあるのが見える。
「総司が謝った……」
明日は雨か雪か槍かと大袈裟に騒いで見せるのが腹立たしい。
「僕だって悪いと思えば謝るけど」
「ホントに?」
「ホントに」
じゃあ、総司の“悪いと感じること”はよほど少ないんだね、と、呆れた風にそう言ってから、美緒ちゃんは思い出したようにけらけらと笑った。
「基本的に謝らなきゃいけないようなことなんて口にしないけどね」
「生意気!」
伸びてきた手が僕の額に触れる。
くしゃくしゃと髪を掻き混ぜられる。
「わ、ちょっと」
不意討ちに、その体重を受け損ねてごろり、二人して地面へと倒れ込んだ。
僕が下、美緒ちゃんが上。
月光を背に受けて、少し影になった彼女の顔が不敵に笑う。
「日頃の恨み、いざ晴らさでか!」
「え?うわっ」
脇腹へ伸びてきた手が僕をくすぐる。
余りのこそばゆさに身を捩って逃げたけれど、その手が執拗に追い掛けてくる。
耳にはきゃっきゃと子供みたいに笑う、愉しげな美緒ちゃんの声。
いつの間に回復したのか、さっきまで倒れ伏していた子とは別人なんじゃないかって疑いたくなるくらいに元気だ。
右手を封じれば、左手が襲い来る。
それも封じてしまおうと追えば、僕に掴まれたままの右手が逆に僕の手を封じた。
自由になった左手がまた隙を狙って攻撃を仕掛けてくる。
二人して庭を転がり回って、ようやく美緒ちゃんの両手を捕まえた頃には、お互いの髪が夜露でびしょ濡れだった。
134/194