069 手の届かない鍵▽side:総司
長い長い箱の群れのうしろ姿を見遣ってから、僕は靴を脱ぎ捨て、駆け出した。
頬を叩く風を感じながら前へ身体を倒す。
喉を通って肺に落ちてきた空気の塊がざわりと僕の胸の中を刺激して、また咳が出そうになった。
無理に息を飲み込んでそれを抑え込む。
「……っ、けほっ」
抑えきれなかった分の咳が僅かに呼吸を乱して、ほんの少しだけ足が鈍った。
ぐい、と口元を拭い、再び足に力を込める。
流れる景色に目を凝らして、見慣れた門扉を探す。
ふと、名前を呼ばれた気がした。
……気のせいかな。急がなきゃ。
「そうじ!」
確かに、僕の名前を呼ぶ美緒ちゃんの声が耳に届いて足を緩め、振り返る。
遥か後方に立つ彼女は片手を上げてぴょんぴょん飛び跳ねていた。
何か叫んでいるけれど、はっきりと聞き取れない。
頭上の手の中で何かがきらりと輝いた。
でも、それが何なのか分からない。
上げていない方の手はしきりと戻って来いと僕を呼ぶ。
そんな時間ないじゃない。
ぱくぱく動く美緒ちゃんの口が二つの音だけを繰り返す。
か、き――かぎ?
かぎ、かぎと美緒ちゃんは連呼する。
こちらに向かって駆けて来ているみたいだけど、足が痛むのか歩いているのとそう変わらない。
戻った方がいいのかな。
完全に身体を反転させて、彼女の方へ戻ろうと足を踏み込んだ瞬間、ぐにゃりと地面に踵が吸い込まれた。
一息に視界が闇に閉ざされる。
頭の中がぐるりと掻き混ぜられる感覚。
手足が痺れ、この場所が暑いのか寒いのか、そんな感覚すら失われる。
身体の輪郭が融け、自身の存在を認識できなくなる。
耳鳴りに近いぼんやりとした音の集団が次第に大きくなり、声の集合体になった。
濁流に流されるように音の流れに翻弄されて、停止した思考のまま流されていく。
再び足の裏に感覚が戻ったと同時に、五感も全て戻った。
障子越しに月明かりが淡く部屋を照らし出す。
そこは、ようやく馴染み始めた西本願寺の一室。
ゆっくりと持ち上げた手を、腕を、胸を、腹を眺める。
見慣れない着物。
腰に刀はない。
(一体どうするの)
全てを置き去りにしてきてしまったというどうしようもない事実に、まだ明けない部屋で嘆息するしかなかった。
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