045 ウサギ▽side:総司
「わ、ウサギだ」
身体から淡いお酒の匂いをさせる美緒ちゃんは‘すとうぶ’に火を入れたら、鏡を眺め始めた。
あんまり熱心に鏡を覗き込んでるものだから、何事かと思ってその顔を見れば目が真っ赤。
目に埃でも入ったのか、不快そうにしきりと瞬きしている。
時折、ごしごしと目を擦る仕草が、なんだか見てるだけで痛い。
「酷いね」
「うん、酷い。痛い。ヤバい」
振り返らずにそう言った彼女は、ぼろぼろ涙を流している。
火鉢なんかよりもずっと温かい‘すとうぶ’で、冷えた指先を温めながらそんな彼女を眺めていたら、おもむろに目に指を突っ込むんでぎょっとした。
「ちょと、幾らなんでもそれはやめなよ」
思わず彼女の腕を捕らえる。
ばちり、鏡越しに潤んだ瞳と目が合った。
困惑の色を浮かべた顔が口を開く。
「コンタクト外すだけだから大丈夫だって」
そっと僕の腕を振り解くと、彼女はまた、目に指を突っ込む。
こんたくと?
ていうか、全然大丈夫そうに見えないんだけど。
べろり、彼女の目の表面から透明の膜がはがれた。
ほら、やっぱり大丈夫じゃなかった。
思わず自分のことの様に顔を顰める。
ちょっと土埃が入っただけでも痛いのに、それは尋常な痛さじゃないと思うんだけど。
「ねぇ、ちょっと、医者にかかったら?」
思わずそう声を掛けたら、さっきとは見違えるほど晴れ晴れとした笑顔で美緒ちゃんは振り返った。
「もう大丈夫。あーすっきりした」
すっきり?
目の表面が剥がれたのに?
訝しむ僕にからからと笑い返して、彼女は指先に乗せた透明な膜を見せる。
「これはコンタクト。目の表面が剥がれた訳じゃない」
目の中に直接入れる眼鏡だと思えばいいよ。
その言葉に余計に首を傾げたくなる。
どう見たって眼鏡には見えない。
それにしても、目を直接触るだなんてちょっと信じられない。
そう言った僕に美緒ちゃんは、こっちの時代では‘コンタクト’を使うのは当たり前だなんて言う。
後の世の人は随分と豪気なのかもしれない。
「あああ、でもやっぱりまだ目がごろごろする」
美緒ちゃんがまた目を擦り始めた。
どんどんどんどんひどいウサギ目になっていく。
擦ったらひどくなるのは分かってるのに。
まあ、擦っちゃう気持ちも分からなくはないけど。
「ねぇ、目洗い薬はないの?」
「めあら……?」
「うん、ほら、目の薬だよ」
目を洗う仕草をして見せれば、目薬のことか、なんて彼女は頷いて、引き出しをごそごそ漁り始めた。
でも、なかなか見つからないらしい。
あっちを混ぜっ返し、こっちをひっくり返し、部屋がどんどん荒れていく。
引き出しから零れ落ちて、こちらに転がってくる見慣れない品々。
しばらくはそれらを取り上げて、ひとつずつ眺めて遊んでいたけれど、それも飽きてしまった。
美緒ちゃんはまだ、ないないないないと呪文みたいに呟いている。
なんかもう見てられないなぁ。
そう思ったら、意識する前に勝手に口から言葉が零れ出た。
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