「どうした、忘れ物?」
 突然の訪問に、ルカは少しだけ驚いた様子で彼を迎えた。今度の訪問は流石に予想外だったらしい。忘れ物かと巫山戯た様に言った彼の瞳が、笑みの奥で未だ何か?と問い掛けていた。
 クローヴィスは黙って首を振った。笑う気にはなれなかった。
「訊きたい事がある」
 険しい表情で部屋の真ん中に立ち尽くしたまま、彼は短く言った。
 忘れ物。そう、忘れ物だ。四年も前の忘れ物。
「座ったら?」
 ルカはゆったりとソファに腰掛け、脚を組みながら、所在無げに佇む彼を見上げる。
 ドアの前に立っている姿を見た瞬間から、彼が何処か思い詰めた様子なのには気付いていた。俯き加減に、無造作に斜め前方に投げられた視線は、眼を合わせたくない事の表れだろう。
 クローヴィスは促されるままに、L字に配置されたアイボリーの革張りのソファの片方に腰を下ろした。彼は随分長い事沈黙を破らなかったが、ルカは押し付けがましくない程度に視線を向けながら、彼が口を開くのを待った。
 漸く意を決した様に、クローヴィスが顔を上げる。真っ直ぐにルカを見据える。一度静かに深呼吸してから、彼はゆっくりとくちびるを動かした。
「四年前…」
 そのたった一言で、ルカの眉がぴくりと跳ねた。彼にとって、それは余りに唐突だった。何かあったとは察していたが、この間の続きだとばかり思っていたのだ。四年前と聞いて思い当たる事はひとつしか無いが、何故突然その話になるのかがどうにも解せない。
 それでも彼は微かに眉を顰めただけで黙っていた。
「四年前のあの夜…俺がリズの為に弾いていたあの時、ルカにはどうしてあれがレクイエムだと判ったの? どうしてリズが死んだ事を知っていたの?」
 クローヴィスは、ルカの僅かな表情の変化も見逃すまいとする様に、じっと彼を見つめたまま言った。
「何故今更そんな事を訊く」
 クローヴィスの厳しい眼差しを受け止めながら、ルカは答えた。注がれる視線はまるで掴んで放さないかの様に、眼を逸らす事を許さない。それなのに、その瞳の奥には隠しきれない怯えが滲んでいて。
「いいから答えてよ」
 思わず語気を荒げたクローヴィスに、ルカは沈黙で答えた。手を伸ばして煙草の箱を取り、火を点ける。息をつく様に煙を吐き出す。それから言った。
「私が殺したと、思っているのか?」
 別段驚いた風も無く、彼は静かにクローヴィスを見つめた。そんな馬鹿げた考えに至った経緯は皆目見当がつかないが、君が遠回しに言おうとしているのは、つまりはそういう事だろう?
 穏やかに問い詰める視線の中で、クローヴィスの表情が苦しげに歪んだ。けれど、微かに瞳が揺れはしたが、彼は怯まなかった。
「本当の事を教えて。リズの死の真相を知っているなら教えて」
 必死の形相で訴えかける彼の姿が痛々しい。軽く眼を伏せてから再び顔を上げたルカは、小さく溜め息をついた。
「残念ながら知らない」
 ゆっくりと首を振る。そこにあったのは、憐れみか、慈しみか。
「ルカ!!」
 クローヴィスは非難する様に鋭く叫んだ。
 嘘だ。知らないなんて嘘だ。
 何を隠しているの?
 言えない理由は何?
 ルカがリズを突き落したから?
 睨み付ける彼を見つめ返すルカの表情は動かなかった。ただ少しだけ悲しそうに眉を歪ませたまま。
 疑惑が確信に変わっていく。しかし、だんまりを決め込んだかに思えたルカの口からやがて飛び出してきたのは、思いもよらない言葉だった。
「君と同じ予感がしていた」
奇妙に醒めた眼で言われて、途端にクローヴィスの顔がさっと引き攣った。
「俺と、同じ…? どういう意味?」
 声が震えた。今ではもう、恐怖と動揺の色がその歪んだ顔にはっきりと浮かんでいた。
「だからあの夜、君のあの姿を眼にして直ぐに判ったよ。私の予感が的中したのだと」
 知っていたのではなく、あの時知ったのだ。正確には気付いたと言った方がいい。
「君も薄々とは感じていたんじゃないのかい?」
 彼女がそうするであろう事を。あの夜の涙に偽りは無くても、君は後悔と自責の念に打ち震えていたのではなかったか。
「違う…」
 クローヴィスは小刻みに首を振りながら、弱々しく呟いた。ルカにというよりは自分に言い聞かせる様な響きだった。ルカを捉えながらも、最早その瞳に彼は映っていなくて。
可哀相な位に狼狽える彼に、だがルカは追及の手を緩めなかった。
「君は気付いていたはずだ。あのレクイエムは懺悔だ。違うかい? 気付いていたから、止められなかった自分を悔やんで責めた。違うかい?」
「違う…違う…」
 残酷なルカの言葉を打ち消す様に、尚も首を振り続ける。ルカを糾弾するつもりで此処へ来たのに、いつの間にか立場が逆転していた。
「一体いつまでそうやって眼を背けて逃げ続ける?」
「………」
 遂にクローヴィスは何も言えなくなって、今にも泣き出しそうな顔で俯いた。ルカの言葉のひとつひとつが重くのし掛かる。
 そうだ、全部ルカの言う通りだ。きっと俺は気付いていたんだ。だからあの時、直ぐに事故じゃないと確信した。
 ルカの言う所の予感ってやつを確かに感じていた。泣きながら笑った君の顔から、もう歌えないと嘆いた君の言葉から、俺を見る君の眼差しから。
 ただ、認めてしまうのが怖かっただけ。気付いていながら救えなかった自分が許せなかっただけ。
 認めたくなくて、認めてしまうのが怖くて、気付かない振りをして眼を背け続けていた事実。
「愛していたんだ」
 絞り出す様にして彼は言った。
「知っている」
 その言葉に偽りは無い事も。
「愛していたのに」
 彼はもう一度、今度は強い口調で嗚咽混じりに呟いた。やり切れなさに身体が震える。
 不意にルカが立ち上がる気配がした。軋む音を残して席を離れた彼はクローヴィスの足元に膝をつき、下を向く彼の頬にそっと片手を宛てがった。
「君の所為じゃない」
 まるで何かの呪文の様に、短い言葉が沁み渡っていく。
 貴方なんか、大嫌いなはずなのに。
 クローヴィスが身体を預けたのが先か、ルカが引き寄せたのが先か、前のめりに倒れ込む様にクローヴィスは跪いたルカの肩に額を乗せた。シャツの襟元から覗く首筋から、ルカの匂いがした。
「もういい加減自分を責めるのはやめなさい」
 俺は勝手に背負っていたのだ。背負う必要の無いものまで勝手に抱え込んで、傷付く事で救われようとしていた。
 そんな事をしても、償いにすらならないというのに。
「それが彼女への何よりの弔いなのだから」
 ルカは静かに付け加えた。クローヴィスはただ彼に身体を預けたまま微動だにしなかった。染み込む様に響くルカの声は心地良く、幾らか心を軽くしてはくれたけれど、全てを受け入れるには傷は余りに深く、時は余りに経ちすぎていた。無条件に受け入れて割り切ってしまう事などできなかった。
 どんな言葉をもってしても、きっとこの傷は癒えない。きっとこの罪からは逃れられない。


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