その日の夜、クローヴィスは衝動的に病院を抜け出した。静寂と寂莫と喪失感に耐えられなかった。行く宛てなど無かったが、とにかく此処から逃げ出したかった。
 ふらふらと彷徨う様に、彼は夜の街を歩いた。それでも足は自然とあの場所に向いていたらしい。
 気が付くと、彼のピアノがあるスタジオの前に来ていた。見慣れた景色に我に返り、自分で驚く。どうして此処へ来たりしたのだろう。
 あぁ、やっぱり俺にはピアノしか無いんだなと思って、彼は薄く笑った。微笑というよりは、それは嘲笑に似ていた。
 鍵を開けて中に入る。ささやかな月灯りと街灯の照らす暗い部屋の中央に、彼のスタインウェイが佇んでいた。眠る様にひっそりと、それでいて主人の還りを待ち侘びていたかの様に凛と。
 クローヴィスは静かに歩み寄って、その滑らかな肌にそっと触れた。酷く懐かしい気がした。変わらぬひんやりとした感触。闇の中でさえ一際輝く艶やかな漆黒は、まるで何事も無かったかの様だ。
 だが、よく見るとそうではなかった。側板にはシャンデリアの破片がぶつかって付いたのだろう傷が幾つも残されていた。
 あぁ、こんな所にも惨事の爪痕が。
 彼はほんの僅かに顔を歪めて、その傷を指先でそっと撫でた。
 ピアノに触れていると、不思議な安息を憶えると共に、奇妙な感覚にも襲われた。痛む腕を見下ろす。指を少し動かすだけで、腕全体に激しい痛みが走った。その腕が、疼く。
 彼は、恐らくあの事件の日以来閉じられたままだったのであろう鍵盤を開け、腕を吊っていた三角巾を外して椅子に座った。試しにひとつ、鍵盤を押さえてみる。指に力が入らなくて弱々しい音が鳴った。
 それでも。それでも、お前は俺の思いに応えてくれる。言葉よりも如実に、この悲しみを、この痛みを表現してくれる。
 そこから先は、まるで何かに憑かれたかの様だった。彼は時折痛みに顔を顰めながら、狂った様に鍵盤を叩き続けた。
 弾いていたのは、名も無き歌。誰も知らない、リズの為だけの旋律。
 彼は感情のままに即興で音を紡いだ。音楽理論も何もかも無視して、ただ痛みを音に乗せる。
 だが、暫く弾いた所で、酷く唐突に彼は弾く手を止めた。
どれだけ痛みを奏でても、この痛みは少しも薄れない。
 悲しい旋律が不自然に途切れ、最後の音が闇に吸い込まれると、静寂があたりを満たした。
 その時だった。
「美しいレクイエムだね」
 静寂を突き破る様に声が響いた。ピアノの前に座ったまま微動だにせず項垂れていたクローヴィスは、びくりと肩を震わせた。声の主が誰かなど振り返るまでもなかったが、彼は弾かれた様に顔を上げた。
 振り仰ぐと、ドアにもたれる様にして見慣れた人影が腕組みしてこちらを見ていた。暗闇の所為で輪郭しか見えなかったが、見間違えるはずがなかった。
「ルカ…」
 眼を見開いたまま、ただ見上げる事しかできなかった。心底驚いていた。いつからそこにいたのだろう。人の気配などまるで感じなかった。
「ルカ…どうして此処に…」
 ルカは答えなかった。微かに首を傾げる仕草をして、ほんの少し笑った様だった。
 それだけで、ルカは何もかもを理解しているのだと、クローヴィスは直感的に悟った。
 どうしてこの人はいつもこうなのだろう。
 どうしていつもこう、何でも判ってしまうのだろう。
 それ以上見透かされるのが怖くて、彼は不意に眼を逸らした。逸らしても意味の無い事など判っていたけれど。
 眼の前には、闇に浮かび上がる白と黒。途中で投げ出してしまった事を思い出し、彼は再び腕を上げて鍵盤に指を乗せた。
 終らせなければ。
 そう、もう届かない君への歌には未だ続きがあるから。
 ルカは黙って聴いていた。戸口の所に佇んだまま、眼を閉じて腕を組み、見届ける様に音に耳を傾けていた。だが、滲む血の様にその旋律に痛みが混じりはじめると、ぴくりと眉を動かした。やがて微かに眉を寄せた表情で眼を上げる。
 そしてはじめてそこから動いた。
「もういい。もうやめなさい」
 彼はクローヴィスの傍らに立ち、彼の左手の上にそっと自身の手を重ねた。口調も仕草も穏やかだったが、それは命令だった。クローヴィスがぴたりと手を止める。その指先から力が抜け落ちていく。
 クローヴィスはくちびるを噛み締めて俯いた。ルカはそのまま手を滑らせ、決して強くはない力でギプスの上から彼の左手を掴んだ。
「ルカ、痛いよ」
 クローヴィスは下を向いたまま、呻く様に呟いた。
「当り前だ」
 ルカは怒った様に言った。痛むのが腕だけではない事など判っていた。
 本当に痛むのは、いつだって眼に見えない傷。
 ルカが放した腕を、クローヴィスは右手で抱き締めた。肩が小刻みに震え出し、啜り泣く様な嗚咽が洩れる。
「痛い…痛いよ…ルカ」
 嗚咽に混じって吐き出された言葉は殆ど救いを求める様で。繊細で感じ易い癖に自分の痛みには無頓着な彼の事だから、自分でも気付かぬ内に様々な感情を溜め込んでいたのだろう。そしてそれを上手く吐き出せずにいたのだろう。
 事実、彼はあの事件以来、はじめて自分の痛みを訴えたのだった。
 一度吐き出してしまうと、溢れ出す感情は留まる所を知らなかった。溜め込んでいた様々な感情が言葉にも形にもならずに渦巻き、一気に流れ出していった。泣き止む術を知らないかの様に彼は泣き続けた。
 そんな彼をルカが無言で見下ろす。彼はあれきり黙ったまま、優しい言葉のひとつを掛けるでもなければ、抱き締めて慰めるでもなかったが、その実心で寄り添っていた。
 だからきっと泣く事ができた。触れる温もりより確かな温度を持った貴方の眼差しに、どうしようも無く救われる。
「おいで、クローヴィス」
 ルカが呼ぶと、クローヴィスは俯いたままゆっくりと身体を傾け、彼の脇腹のあたりにこつんと頭を宛てた。



     ■ ■ ■



 声が聴こえる。
 誰かが呼んでいる。
 ルカ?
 いや、違う。



 クローヴィスは上から降ってくる声に促される様にゆっくりと眼を開けた。
「大丈夫か?」
 レスタトが覗き込んでいた。未だ夢の名残が残っていて、状況がよく把握できない。何度が瞬きをして、そこではじめて彼は自分が泣いていた事に気付いた。レスタトは不意に目尻から零れた涙に驚いて、彼を呼んでいたのだった。
「レスタト…」
 クローヴィスは小さくくちびるを動かして言った。レスタトがほっとした様に微笑む。
「中条から連絡貰った時はびっくりしたぞ。道端で倒れてたって通報があったって。憶えてるか?」
 クローヴィスは黙って頷いた。
 憶えている。あの歌を聴いて取り乱して、だからあんな夢を見た。
 レスタトにも先程の涙の理由は何と無く判っているらしかった。何事も無かったかの様に振る舞ってはいるものの、腫れ物に触れる様な、何処か遠慮がちな様子が窺える。その証拠に、クローヴィスが多くを語ろうとしなくても、彼は何も訊かなかった。
「帰ろう、レスタト」
 クローヴィスは起き上がって、震えそうになるのを堪えながら腕に刺さった点滴の針を無造作に引き抜いた。
「またそんな無茶な事を」
「どうせビタミン剤か何かだろ」
 クローヴィスがつまらなそうに鼻を鳴らすと、レスタトは大袈裟に腕を広げてみせた。だが、彼は呆れた様に言いはしたが、言葉程に驚いてはいなかった。クローヴィスの無茶はいつもの事で、止めても無駄なのもいつもの事だ。
 しかしそれにしても顔色が悪い。彼は立ち上がったら今にも倒れてしまいそうな程に顔面蒼白で、よくそれで帰るなんて言えるものだと、レスタトは呆れるを通り越して半ば感心した。
「判った判った」
 早くもベッドを降りかけている彼を、レスタトが苦笑混じりに押し留める。
「判ったからちょっと待ってろ。中条と話つけてくるから。な?」
 肩を押さえながら宥める様に彼が言うと、クローヴィスはベッドに腰掛けたまま渋々頷いた。黙っていなくなれば後で小言を食らうのは眼に見えている。
 出て行きかけた所でレスタトが思い出した様に振り返った。
「お前さぁ、顔色真っ青だけど、本当に大丈夫?」
「うるさい。早く行けよ」
 軽く睨み付ける。レスタトはやれやれと首を振って今度こそ出ていった。
 ドアが閉まると同時に、堪えきれずにクローヴィスのくちびるが震え出した。吐く息まで震えそうになる。この戦慄はレクイエムを聴いてしまった所為ばかりではなかった。心に引っ掛かっていたのはルカの言葉。
 美しいレクイエムだね。
 眼が醒めた瞬間、夢を見ていたと悟った瞬間、閃く様に気付いたのだった。
 何故あの時、ルカにはあれがレクイエムだと判ったのか、と。
 どうして今まで気付かなかったのだろう。あの時点でルカが、あれがレクイエムだと判る訳が無いのだ。リズが死んだ事を知っている訳が無いのだ。
 考え得る結論はひとつ。
 ルカがリズを殺した?
 信じたくなどなくて、そんなはずは無いと何度も打ち消そうとしたが、一度そう思ってしまうと疑わないではいられなかった。
 確かめなければ。
 それは恐怖以外の何ものでも無かったけれど。心臓が、壊れそうな程に早鐘を打っている。
 四年間追い求めていた真実への鍵が、こんなにも近くにいたかもしれないのだ。全てのはじまりとなったあの事件への関与までは定かではないが、最早無関係だとも思えない。怖くないはずが無かった。
 だが、確かめない事には此処から前には進めない。

 程無くしてレスタトが戻ってきた。どう上手く丸め込んだのかは知らないが、中条は意外にすんなり帰らせてくれた。
 病院を出て直ぐレスタトと別れた。不本意そうではあったが、彼はやはり何も訊かなかった。
 迷った末に、クローヴィスは結局彼に胸の内を打ち明けなかった。隠すつもりは無かったけれど、何と無く言えなかった。口にするのが怖かったのかもしれない。
 これで良かったのだ。未だそうと決まった訳じゃない。ちゃんと確かめて、それからでいい。
 クローヴィスは頭を振って、そう自分に言い聞かせた。


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