六 追憶の中で



 もしも、ではじまる未来なんて無い。
 選ばなかった未来は、はじめから無いのと同じだ。
 でも。それでも。
 もしもあの時、違う選択をしていたら、と思わずにはいられない。
 もしもあの時、俺がちゃんと彼女を護れていたら。
 もっと早く気付けていたら。



「ぅ……」
 クローヴィスは壁に手をついて、小さく呻いた。もう片方の手を口に宛てる。吐きそうだった。
 逃げる様に店を飛び出してどれ位彷徨ったのだろう。気が付いたら人気の無い薄暗い路地裏に迷い込んでいた。此処が何処だか判らない。何処をどう歩いたのかも憶えていない。
 ただ、動悸だけが狂った様に。
 彼は眼を閉じて呼吸を整えようとした。だが、下ろした瞼の裏に蘇るのは、あの日の光景。ざわめきと、人だかりと、その真ん中にいた君。
 喉の奥から突き上げる様に込み上げた吐き気に、クローヴィスは喉を上下させた。胃が中のものを吐き出したがっている。身体を痙攣させながら何度かやり過ごした彼だったが、やがて堪えきれずに身体を折り曲げて嘔吐した。鼻をつく異臭と口の中に広がる嫌な味に噎せ返る。彼は激しく咳き込み、手の甲で乱暴に口元を拭った。息苦しさに、目尻に涙が滲む。
 リズ…。
 声には出さずに呟いた。もう何も吐くものなんて残っていないのに、吐き気は治まるどころか酷くなっていた。蹲ってしまいそうになる両脚を叱咤して、吐瀉物をよける様にして歩き出す。
 だが、幾らもいかない内によろめいて、彼は再び薄汚れた壁に身を寄せた。そのままずるりと膝を折る。眼の前に灰色が広がる。その灰色が、壁なのか地面なのかも判らない。
 クローヴィスは倒れ込み、朦朧とする意識の中でぼんやりと鈍色を眺めた。
 リズ。
 もう一度呼ぶ。歪む視界で最後に見たのは、彼女の白いハイヒールだった。



     ■ ■ ■



 あの日。
 俺はする事も無くて、いつもの様にベッドの上から窓の外を眺めていた。よく晴れた日だった。冬独特の、何処か憂いを帯びた様な空元気みたいな空の色。こういう時、映画だったらどんよりとした曇り空か土砂降りなのに、と皮肉めいた気分になったからよく憶えている。
 多分もう直ぐ退院できる。脳に異常が無い事が判ればきっと直ぐにでも。早く此処から出たい。現実から隔離された様なこんな世界から。けれど、どんなにいい検査結果や経過報告を聞かされても、気分は少しも晴れないのだった。
 此処を出て、一体何処へ行けばいいのだろう。待っていてくれる場所なんて無い。
 見下ろせば、ギプスを填められた左腕が。
 複雑骨折。再起は、恐らく不可能。医者ははっきりとは言わなかったが、沈黙が何よりの答えだ。
 遅れてやってきた現実感に、もう溜め息も出ない。絶望はどうしてこうも穏やかに緩やかにやってくるのだろう。
 そんな事を取り留め無く考えていたら、ふと病室の外が騒がしい事に気付いた。死が溢れ返る鬱屈とした空間には不釣り合いな程の喧騒。いや、喧騒というよりは悲鳴に近い。何があったのだろうと他人事の様に考えようとして、不意に胸騒ぎがした。嫌な予感が胸を締め付ける。
 無意識の内にベッドを降りていた。何かに導かれる様にして病室を抜け、人だかりのする方へ歩いていく。
 廊下の先、中庭に面した広い窓の周りに人が集まっていた。悲鳴と怒号が飛び交っていたが、何だか頭が茫然としていて、何を言っているのかは理解できなかった。人混みを擦り抜けて窓の傍へ歩み寄り、人々に倣って階下を見下ろす。
 中庭にも同じ様にいびつな人の輪ができていた。その群衆の真ん中にいたのはリズだった。
「リズ!!!」
 思わず開いた窓から身を乗り出して叫んだ。そのまま、凍り付いた様に身動きが取れなかった。眼を背ける事すらできない。
 それは、信じられない光景。
 信じたくない光景。
 大量にぶち撒けられた赤の中心にリズがいた。彼女の美しい長いブロンドも、お気に入りだと言っていた白いワンピースも赤く染まっている。少し離れた所に白いハイヒールが片方転がっていた。
 全部俺の知っているものだ。知っているはずのものが、眼を覆いたくなる程無残に変わり果てていた。
 一体どれ程の間、ただそうやって眺め下ろしていたのだろう。知らぬ間に走り出していた。集まった野次馬たちに何度もぶつかりながら、時には転びそうになりながら、無我夢中でリズの元へと走った。
 もう間に合わないと、判っていたけれど。
 四階分の階段を駆け下りた記憶は無い。どうか見間違いであってくれ、別人であってくれと祈っていた様な気もするし、或いは昨日までの彼女を走馬灯の様に思い出していたのかもしれない。
 混乱する思考回路が捜していたのは何か。
 漸く一階に辿り着き、足を止めた。息切れしているのはきっと走った所為ばかりではなかった。はやる気持ちとは裏腹に、脚はゆっくりと人混みに近付いていく。掻き分ける様にして進んでいくと、人々の脚の間から白い手が見えた。前にいる人を乱暴に押しのけて輪の中心に進み出る。
 俺と彼女の間に、もう遮るものは何も無かった。
「リズ…」
 膝に力が入らなくて、そのままその場に座り込む。包帯を巻かれた頭を両手で抱える。折れた腕も打った頭も、痛みなんて感じなかった。
「あ…ぁ…」
 言葉にすらならない嗚咽が勝手に洩れる。上手く呼吸ができない。
 この感情を何と表現すればいいのだろう。打ちのめされるという以外に何と。それは悲しみとも怒りとも違った。ただ痛い。
 くちびるを噛んで、俯いて、両手を握り締めて、堪えようとした。けれど、得体の知れないごちゃ混ぜの感情は俺の手には負えなかった。
「―――――」
 勝手に溢れだしたのか、俺が押し出したのか、自分のものとも思えぬ慟哭が流れ出していった。



 気が付くと、ベッドに横になっていた。見飽きた白い天井に、またかと思う。頭がぼんやりする。多分鎮静剤か何かでも打たれたのだろう。まるで長い夢を見ていたかの様だ。
 これが夢だったらよかったのに。
 今更の様に腕が痛んだ。そういえば砕けているんだっけ。
 あたりは酷く静かだった。その静寂にももう慣れた。慣れたはずなのに、君の鼓動が失われてしまっただけで、世界はこんなにも静かで。病室の外に人の気配はあったけれど、全ての音が何故か遠い。
 ベッドの背もたれを起こして、見るとも無しに窓の外を眺めた。此処から中庭が見えなくてよかった。慌ただしく銀色のビニルシートにくるまれて運ばれていく彼女を見たくなんかなかった。
 何度か様子を見に来た看護師の話によると、警察が来て現場検証が行われたらしい。遺書は無かったが、靴を履いたままだった事から、事故か自殺か断定できないでいるという事だ。
 彼女の話を半ば上の空で耳に入れていた。何を聞いても取り乱す事はなかった。
 聞く必要なんて無かったから。
 俺には判っていた。例え世界中の誰もが事故だと言ったとしても、俺には彼女が自らの意思で飛び降りたのだと判っていた。
 そして、どちらにせよ、君がいなくなってしまった事に変わりは無いのだという事も。重要なのは君がいなくなった理由じゃなくて、君がいなくなってしまったという事実そのものだ。
 少なくとも、その時の俺にはそうだった。
 看護師は他にする事が無いのかという位、本当に頻繁にやって来た。俺が後を追うか、気が触れるかでもすると思ったのだろう。彼女の意に反して、俺は平静だった。実感が無かった訳ではない。君がいなくなってしまったという事実は、もうピアノを弾けないかもしれないという事実なんかより余程現実味を帯びていた。きっと、あれを見てしまった所為だ。赤い海に横倒る、彼女の終りの姿を目の当たりにしてしまったから。容赦無くあれを見せつけられて、現実から眼を背けられる訳が無い。
 ねぇ、今なら判るよ。変わり果てた君の姿を四階から見た時、俺が何を思ったか。俺は間に合わなかったと思った。
 そう、混乱する思考回路が捜していたのは、理由。きっと俺は、記憶の中の君の様子に理由を捜していたのだと思う。全てを終らせる道を選んだ、その理由を。
 君は耐えられなかった。ただ逃げ出したかった。
 ねぇ、そうでしょう?
 君には何の負い目も無いのに、君は自分を責めずにはいられなかった。
 ねぇ、そうでしょう?
 君の苦しみに気付いてあげられなかった。ひとりで君を護った気になって、その実何も見えていなかった。何も判っちゃいなかった。
 痛む左腕をギプスの上から右手で押さえて、ベッドの上で蹲った。

 多分、あの時俺は未だ、本当の意味では受け入れられていなかったのだと思う。心が麻痺してしまって、取り乱す事すらできなかったのだ。端から見たら不自然な程の鎮静は、消化不良の産物だ。


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