「この間のあれ、どういう意味?」
 怒った様な、拗ねた様な、複雑な顔でヴィネルークがドアの前に立っていた。
「入れよ」
 身体をずらして中へと促す。ヴィネルークはおずおずと部屋に足を踏み入れた。
「本気なの?」
 彼は値踏みする様な眼でセラフィムを見上げる。
「本気じゃなくてあんな事言うかよ」
 苦しげなセラフィムの声。
「だったら痛みをちょうだいよ」
 ヴィネルークは彼に詰め寄り、ネクタイを掴んで顔を寄せた。セラフィムはやんわりとそれを制すと、ベッドに浅く腰掛けた。
「俺はお前を傷付けない」
 立ち尽くしたままのヴィネルークを失望が襲う。それは次第に怒りに変わった。ほんの少しでも彼に期待してしまった自分に、自分を欺いた彼に、憤りを憶える。
「ほらね? 結局お前には何もできない。のこのことこんな所にきてしまった僕が馬鹿だったよ。どうかしていた」
 彼は言いながら笑い出した。自分の愚かさが滑稽でならなかった。
 突然、セラフィムが彼の手首を掴んでベッドに投げ飛ばした。荒々しくくちびるを塞ぐ。思いをぶつける様な、そんなキスだった。心が掻き乱される。セラフィムが顔を離すのを待って、ヴィネルークは言った。
「どうして僕に構うの。どうして放っておいてくれないの」
「知らねぇよ、そんな事!!」
 セラフィムはやけくそになって叫んだ。
「僕はお前なんかいなくても、あれで十分満足だったのに」
 そうだ。お前に出逢ってから可笑しくなったのだ。お前を知ってから何かが狂い出した。お前さえ知らなければ、僕は僕でいられたのに。誰かに執着する事もなく、翻弄される事もなく、ただ痛みと快楽だけに溺れていられたのに。
「放っとけなくなったんだ、仕方無いだろ」
 セラフィムは消え入りそうな声で呟いた。その感情を自分でも持て余しているのだった。何と名付ければいいのか判らない、けれど激しい感情を。今でも、心底本気で彼の性癖が理解できない。だが、このまま彼を放っておく事もできないのだ。
「馬鹿みたい」
 ヴィネルークが呟く。彼は腕を上げてセラフィムの頬に触れた。
「お前の方がつらそうな顔をしている癖に」
 どうして彼は自分の為にここまで苦悩するのだろうと、ヴィネルークはぼんやり思った。そんな価値なんて自分には無いのに。
「お前は馬鹿だ」
「俺もそう思うよ」
 そう言って、もう一度くちびるを重ねる。

「ねぇ、また痛みが欲しくなったらどうするの?」
 セラフィムの腕の中でヴィネルークが言う。普通のセックスをしたのは久し振りだ。ヴィネルークにとってセックスはおまけの様なものだった。痛みを与えて貰う代わりに性欲の吐け口を提供する。苦痛を伴うセックスは気持ちいいけれど、それが主体になる事はない。
 セラフィムは起き上がり、引き出しから何かを取り出した。
「何これ」
 覗き込んで、ヴィネルークは問う。彼が手にしていたのは医療用の長い針だった。
「ピアスを開けよう」
 彼が言うと、ヴィネルークはくすりと笑った。
「いいね、それ。お前がそれで僕の身体を貫く。考えただけでぞくぞくする」
 最初のひとつは、突き通すまでにえらく時間が掛かった。慣れない所為で思い切りが悪く、酷く出血した。ヴィネルークにしてみれば些細な出血だったけれど。
 耳たぶの甘い痺れに酔いしれる。
 あぁ、欲しかったのは、誰かの手じゃなく、お前のこの手。



 ヴィネルークの両耳は直ぐにピアスでいっぱいになった。
「次は此処に開けてよ」
 彼は乳首を指差して言った。セラフィムは顔を顰める。
「そんな所、痛いよ」
「きっと凄く気持ちいいよ」
 セラフィムは彼の望む通りにした。乳首を摘まんで軽く引っ張り、皮膚に針を突き刺す。繰り返す内に大分上達したとはいえ、この感覚には慣れる事ができない。ヴィネルークは悩ましげな吐息を洩らし、うっとりと眼を細めた。
「なぁ、お前、どうして軍人になんかなったんだ?」
 セラフィムはふと思い立って訊いてみた。男娼にでもなれば、彼の望む痛みや快楽を喜んで与えてくれる変態が幾らでもいるだろうに。
「別に何でもよかったんだ。うちは軍人の家系だから、当り前みたいにこの道を選んだ」
 ヴィネルークは乳首のピアスを指先でいじくりながら、まるで他人事の様に淡々と言った。彼は選んだと言ったが、それは本当に彼の意思だったのだろうか。彼程の逸材なら、軍としては何としても欲しい人材である事は間違いない。一度入隊すれば瞬く間に昇進し、難無く要職に就く事だろう。だが、上り詰める所まで上り詰めて、その時彼は何を手にするのか。きっと、彼には何のビジョンも見えてはいないのだろうと思う。必要すら無いのかもしれない。男に産まれた時点で軍人になる事が決められていた彼は、逆にそれを利用した。被虐と快楽、ただそれだけを求めて。
 此処は外部から遮断された、男たちだけの特殊な空間だ。健全な性的欲求を、健全ではない方法で発散させる輩は多い。刑務所や軍などの抑圧された、しかも男だけの空間では珍しくもない。意思とは無関係に定められていた運命は、彼にしてみれば好都合だったのかもしれない。



 僕の中には闇がある。
 とても醜い、底無しの欲望が。
 きっと誰にも理解できない。お前でさえも。
 きっと僕はお前を壊してしまうよ。
 お前は言ったね。僕を傷付けないと。
 僕はお前に傷付けられたい。
 お前に痛めつけられたいんだ。
 こんな痛みじゃ足りない。こんなセックスじゃ足りない。
 お前を以ってしても、僕は変われないよ。



「ぁ……んん…」
 ヴィネルークは長い長い溜め息を洩らした。軍服の前だけをはだけられた格好で、ベッドに横倒っている。その美しい白い肌をセラフィムが指先と舌で愛撫する。遊戯は未だはじまったばかりだ。
「ねぇ、セラフィー。もっと痛みをちょうだいよ」
 喘ぐ息の合間を縫って乞う。セラフィムが顔を上げる。彼は傷付いた様な眼をしていた。ヴィネルークは上体を起こし、逆に彼の身体を押し倒してその上に馬乗りになった。
「ねぇ、僕を傷付けて。僕を痛めつけてよ」
 セラフィムをベッドに押し付けながら、彼は迫る。耳たぶにぶら下がる大量のピアスが揺れる。瞳の奥に狂気が覗いていた。セラフィムは仰向けに身体を投げ出したまま、顔を背けた。
「嫌だ」
 呻く様に言う。
「どうしてさ。痛みが欲しくなったら来いって言った癖に。僕は苦痛が欲しいんだよ。お前からの苦痛が欲しいんだ」
 心の底からの願いだった。今までの様にはなれない。痛みと快楽を与えてくれさえすれば誰でもよかった頃には戻れない。何故これ程までに彼に執着してしまったのかは、ヴィネルーク自身にも判らなかったけれど。
 彼はおもむろに、枕の下に忍ばせていた短剣を抜いて、セラフィムに突き付けた。
「これを取れ。そして僕を傷付けて。僕を愛してるなら気持ちよくしてよ!!」
 彼は遂に叫んだ。冷たく煌めく短剣を握り締める手が震え出す。
「できないなら、お前を忘れさせてよ」
 がくりと項垂れ、最後は消え入るような声で。今となってはもう、この渇きを癒せるのは彼以外には有り得ないと判っていたから。
「ヴィネ…」
 セラフィムは彼の手から短剣を取り上げようと腕を伸ばす。
「触らないで」
 ヴィネルークはその手を振り払う。セラフィムは下になったまま、片肘をついて身体を起こした。
「嘘つき……触るなってば!!」
 ヴィネルークは身体ごと揺すって拒絶を示す。
「落ち着け。そんなもん振り回すな」
「僕は落ち着いてるよ」
 セラフィムの手が漸く彼の手首を捕らえる。もう片方の手で短剣の柄を掴み、放せという意思を籠めて握ると、彼はゆっくりと指先から力を抜いていった。彼の指が完全に離れるのを待って、セラフィムは短剣を取り上げ、サイドボードに置いた。それから再びヴィネルークの方に向き直り、震える肩を抱き寄せた。
「触るな」
 ヴィネルークは彼の腕の中でもがく。セラフィムは放そうとも腕を緩めようともしなかった。
「放して!! お前なんかいらない。僕の望むものをくれないのならお前なんかいらない!!」
 叫び、暴れるヴィネルーク。セラフィムは沈痛な面持ちで、彼の欲求ごと抑え込む様にベッドに身を投げた。
「放して!! 放せ!!」
 彼は狂った様に尚も自由を求めて叫び続けたが、重力を味方につけた、彼より幾分体格のいいセラフィムに押さえ込まれては、抗う事はできなかった。
「嫌いだ、お前なんか。こんなものの為に僕はお前を求めたんじゃない。僕が望むのは…」
「黙れ!!」
 セラフィムが強く遮る。聞きたくなんかなかった。
 ふたりして黙り込む。息をするのが酷く苦痛だった。
 ねぇ、どうしてこんなに苦しいの。
「きっと、僕らは出逢うべきじゃなかったんだ…」
 だって、こんなにも苦しまなければならないのだから。お互いを知りさえしなければ、どちらも平穏でいられた。こんな風に傷付け合わずにいられた。
 研ぎ澄まされた刃などより余程破壊力を持った、鋭利な言葉が胸を貫く。それは、投げつけられたセラフィムにも、投げつけた張本人のヴィネルークにも、深い傷をつけた。
 言葉によって傷付いたふたりは、その痛みを抱え込んで押し黙るしかなかった。重ねた体温は、ただそれが別の個体だという事を思い知らせてくるだけだった。
 セラフィムは大人しくなったヴィネルークの肩口に顔を埋めて、洩れそうになる慟哭を堪えた。まるで寄り添っているかの様だったが、決してそうではなかった。
 顔を上げる事ができなかった。その顔に浮かぶ諦観と悲嘆を見たくなかった。それでも、この手を放したくはない。
 彼を護りたかった。彼を傷付ける他の誰の手からも、彼を蝕む狂気からも。だが、彼の闇はセラフィムの手には負えない程に深く、この手は余りに無力だ。
 俺は…どうすればいい…?



 数日後、訓練を終えて寮の自室へ戻るヴィネルークの眼に、それは飛び込んできた。壁に設けられた大きな窓に寄り掛かり、腕を組んで、彼は立っていた。
「未だ僕に何か用ですか?」
 ヴィネルークは数歩手前で立ち止まり、動揺を悟られまいと彼を睨んだ。身構える。もう何を言われても心が揺れない様に。
 セラフィムは床に視線を落としたまま、顔を上げようともしなかった。
「用が無いなら失礼します」
 彼が随分長い事黙っているので、ヴィネルークは一礼して通り過ぎようとした。彼の横を擦り抜けるほんの一瞬に、思い詰めた様な表情が垣間見えたが、ヴィネルークは無視した。彼は毅然と歩き続けた。歩調を速める事もなく、緩める事もなく。
「ヴィネ」
 無視する。
「迎えに来たんだ」
 セラフィムは漸く窓から背を離し、過ぎていくヴィネルークの背中を見つめた。
 散々悩んで、迷って、やっと意を決した。本当は、その手を放してやるのがお互いの為だったのかもしれない。けれど、どうすればいいのか、どうしたいのか、答えは自分の中にあった。
「何…言ってんの…?」
 ヴィネルークは振り返らずに言った。セラフィムが近付いてくる気配がする。
「何言ってんだろうな、俺は」
 彼が微かに苦笑する。
「お前を待っている間ずっと何を言おうか考えていたよ。上手い言葉は何も思いつかなかった。でも、考える必要なんてなかったんだ」
 視線が絡み合う。縺れて、ほどけなくなる。
「お前が欲しい」

「僕の何が欲しいの? 身体?」
 セラフィムの部屋。窓辺に立って、ヴィネルークは嘲笑う様に言った。セラフィムは判っている癖にと言いたげに溜め息をつく。
「違うよ」
「僕は普通のセックスじゃ満足できないって言ったじゃないか」
「全部だ。俺はセックスがしたいんじゃない。俺が欲しいのはお前の全部。お前の妙な性癖も含めて、全部」
 彼は言いながら歩み寄り、カーテンを閉ざした。
「それは僕の欲望を叶えてくれるって事?」
「判らないな。今は自分の欲望でいっぱいだから」
 襟元に手を伸ばし、ゆっくりとボタンを外していく。顕になった首筋にくちびるを寄せる。ヴィネルークの柔らかな体臭が鼻孔をくすぐる。ヴィネルークは両腕を垂れたまま、ただ立っていた。抵抗もしなかったが、求めもしなかった。
「やっぱり僕を抱きたいんじゃない」
 熱を帯びた吐息を肌に受け、声に軽蔑が籠もる。
「黙ってろ」
 セラフィムは顔を上げずに、吐き捨てる様に言った。はだけた鎖骨に軽く歯を立てる。
「そんなんじゃ何も感じないよ」
 事実、ヴィネルークの身体はぴくりとも反応しない。
「どうして欲しい?」
 セラフィムが耳の直ぐ近くで囁く。ヴィネルークは眼だけで彼を見上げた。
「お前の好きな様にしていい」
 言って、彼は妖艶にくちびるの両端を吊り上げた。
「お前の覚悟を試してあげる」
 醒めた眼差しに妖しい光が宿る。セラフィムは彼の方からするりと軍服を落とした。
 そして、溜め息をついた。
 彼の両腕は傷だらけだった。刃物で何度も何度も切りつけた痕が生々しく残っていた。
 驚きはしなかった。やはりと思っただけだった。それでも、憤りを感じない訳ではない。
「どうした、これ。誰にやられた?」
 傷痕に舌を這わせる。微かに血の味がした。
「僕がやったんだよ」
 彼は笑う。
「お前がやってくれないから自分でやった。ねぇ、セラフィー、怒ってる?」
「怒ってるよ」
「僕が他の誰かに傷付けられたと思って怒ってるの? だったら嬉しいな。でも、僕がやったんだよ。僕を傷付けてくれる者なんてもう誰もいないもの」
 アランも他の誰も、彼の常軌を逸した行為に恐れをなして去っていった。もう誰も自分に虐待を加えてくれる者はいなかった。
「お前、こんな事続けてたらいつか死ぬよ」
 彼の身体をベッドに押し倒しながら、セラフィムは言った。隠すものの無い裸体は、外からの光を遮断した薄暗がりの中でさえ、眼を奪う程に美しい。不思議なのは、忌々しい醜い傷痕がどれだけ増えようとも、その美しさが少しも損なわれない事だ。
「いいよ、別に死んだって。こんな風に痛みの中で死ねたら、きっと凄く気持ちいいだろうな」
 腕を顔の前に翳し、彼は恍惚とした表情で眺めながら呟く。憧憬と羨望が、言葉の端にも眼の端にも滲んでいた。
 セラフィムはくちびるを噛んだ。狂っている。本当にもうどうしようもないくらいに狂っている。
 彼はロープを取り出した。細くて強いそのロープでヴィネルークの身体を縛り上げていく。
 緊縛のやり方は心得ている。戦地で敵を捕獲した時の為に、そういう訓練を受けている。彼の身体を傷付けずに、彼に苦痛を与える方法が、これくらいしか思いつかない。
「もっと強く」
 ヴィネルークは身を捩って歓喜する。セラフィムは鬱血しないぎりぎりまで強く締め上げた。彼の薄い肉にロープが食い込む。身体の中心でペニスが形を変えていく。
「あぁ…」
 ヴィネルークは上擦った声を上げた。セラフィムは彼の脚を開かせ、膝が閉じない様にベッドに括り付けて固定する。脚の間の谷間に、指で慣らさずに玩具を挿入していく。微かな抵抗感はあったが、それでもそこはすんなりと玩具を飲み込んでいった。
「んっ……んぅ…」
 喘ぐ彼の首にロープを巻きつける。
「望み通り、殺してやるよ」
 ロープを握り締め、その細い首を両手で絞め上げると、ヴィネルークはびくんびくんと身体を震わせた。
「あっ、や…も……」
「いけよ。見ててやるから」
「あっ…んぁ…あぁっ…」
 淫らな格好で拘束され、首を絞められながら、ヴィネルークはその夜最初の絶頂を迎えた。
 ぐったりと沈み込み、荒い呼吸を繰り返す彼の、顔に張り付く髪を掻き上げてやり、セラフィムは額にキスを落とす。彼の全身は汗でしっとりと湿っていた。首には赤い痕。彼はヴィネルークの脚の間に這いつくばり、下半身を濡らす液体を舌で掬い上げた。太腿の内側、脚の付け根と舐めていく。
「ぁ……」
 ヴィネルークが身体を揺らし、身悶える。欲しい所には与えられない刺激に苦悶する。一度果てたばかりの気怠い身体が再び疼き出す。
「ん……セラフィー…ひぁっ…」
 わざと焦らす様に周りを責め立ててくるセラフィムに抗議の声を上げようとするが、喉から転がり落ちるのは嬌声ばかりで。
「僕、も…僕もお前が、ぁっ…欲しい」
 潤む瞳に熱が籠もる。
「これでいった癖に」
 すっぽりと埋まっている玩具を更に奥まで捩じ込んでやる。
「あぁぁっ」
 ヴィネルークは背中を仰け反らせ、喉が引き裂ける様な悲鳴を上げた。絶え間無く喘ぎながら、大きく首を振る。
「お前じゃ、なきゃ……駄目、なんだ」
 喘ぎすぎて掠れた声が言う。セラフィムは彼の脚の間から這い出し、彼を責め立て続けている玩具を引き擦り出した。
 そして、繋がる。
「あぁっ、セラフィ……」
「ヴィネ」
 ふたつの身体が激しくぶつかり合う。押し寄せる快楽に溺れていきそうだった。セラフィムにも限界が迫る。彼は眉を寄せ、低く呻いた。
 その眉間に深い悲哀が浮かんだ。快楽が全てを覆い尽くし、押し流していく前のほんの一瞬に、彼は強く思った。
 こんな事は終りにしなければ。
 殆ど二人同時に欲望を解き放つ。
 それは、本当の狂気のはじまり。

 彼らは何度も上下を入れ替えながら、快楽を貪り合った。一生分の精子とエクスタシーを使い果たそうとするかの様に。
 愛し合うという表現は当てはまらない。その行為は寧ろ、それ自体が目的の、欲望と衝動に突き動かされた野性的な行為だった。野蛮で卑しい行為だとさえ言えるかもしれない。
 それでもどうしようも無く離れがたく、求め合わずにはいられない。こんなのは駄目だと何処かで判っていながらも、いっそこのままふたりで何処までも堕ちていきたいと願う。

「このままずっと、お前を此処に繋ぎ止めておきたいよ」
 ロープをほどいてやりながら、セラフィムがぽつりと呟いた。声に憂いが滲む。そうしておけば、誰も彼を傷付けられない。彼自身でさえも。
 彼の言葉の意図を察したヴィネルークは小さく笑った。
「お前がそうしたいのなら、そうしていいよ」
 無数の赤い痕の残る身体を寄せる。眼は笑っていなかった。
「また辛そうな顔してる」
 ヴィネルークは言いながら、セラフィムの頬に手を宛てがう。覗き込んでくる瞳から逃れる様に、セラフィムは苦しそうに顔を背けた。
 ヴィネルークは仰向けに寝転がり、両腕を翳して赤いロープの痕を眺める。
「綺麗。でも直ぐに消えてしまうね」
 名残惜しそうに、彼は言った。
「気持ちいいのはたった一瞬だ。苦痛も快楽も手に入れた瞬間に消えてしまう。僕は忘れて、また欲しくなる」
 そうして、淋しそうに笑う。
「きっとまた、僕は繰り返すよ」
 誰かの被虐を、そして自虐を。
 止められない。
 止めようがない。
 与えられ続けなければ駄目なんだ。
 セラフィムは傷だらけの細い身体を抱き寄せた。彼を傷付けたくないのに、傷付ける事でしか救えないのかとやり切れなくなる。
 彼はずっとひとりぼっちだったのだと思った。ずっとずっと、こんなにもひとりぼっちだったのだ。
 これ以上強く抱いたら折れてしまうのではないかというくらいにきつく抱き締めながら、彼の果てしない孤独を思った。
「させないよ」
 食いしばった歯の間から囁く。
 これ以上、彼を孤独になんてさせはしない。
 彼の孤独は俺が終らせてあげる。



 何処かで誰かが警鐘を鳴らしている。
 こんなのは間違っていると誰かが囁く。
 けれど、一度憶えてしまった蜜の味を誰が忘れる事ができよう。
 一度手に入れたものを、誰が容易に手放す事ができようか。
「ねぇ、セラフィー、痛みを…痛みをちょうだい」
 気紛れな迷い猫が今宵も淫靡にねだる。
 誰がこの誘惑に勝てようか。
「ねぇ、キリストごっこをしようよ」
「何だそれは」
「僕がイエスで、お前がピラト総督。ユダに売られた僕をお前が拷問するんだ」
 新しい遊びを思い付いた子供の様に、彼は無邪気に笑う。セラフィムは仕方無く彼の言う通りにした。要するに、彼を拘束して拷問する振りをすればいいのだ。
彼を後ろ手に縛り、目隠しをして乱暴に床に転がす。聖書の言葉をなぞって尋問をはじめる。
「I put You under oath by the living God: Tell us if You are the Christ, the Son of God!」
「It is as you said. Nevertheless, I say to you, hereafter you will see the Son of Man sitting at the right hand of the power, and coming on the clouds of heaven.」
「He has spoken blasphemy! What further need do we have of witnesses? Look now you have heard His blasphemy! What do you think?」
 セラフィムは言い、鞭を手にする。跪くヴィネルークを見下ろす。
 こいつは俺がいないと駄目なんだ。俺が苦痛と快楽を与えてやらなければ、こいつは際限無く自分で自分を痛めつけてしまう。
 その瞬間、セラフィムの中で何かが壊れた。振り上げた右手をヴィネルークの背中に真っ直ぐ振り下ろす。肉を打つ鋭い音が響いた。
「あぁっ」
 ヴィネルークが叫ぶ。セラフィムは打ち続ける。やがてヴィネルークは耐えきれずに床に伏した。
「Behold your King! Behold, I am bringing Him out to you. You take Him and crucify Him.」
 セラフィムは手を止めてそう言うと、今度は群衆の側に回って、ヴィネルークをベッドに運び、両腕を開かせて十字架に掛ける真似をした。
「Father, forgive them, for they do not know what they do.」
 そして言う。
「Father, ‘into Your hands I commit My spirit.’」
 それは、取りも直さずイエスの最後の言葉。イエスはそこで息を引き取るのだ。戯れは終幕を迎える。
 少しの沈黙の後で、セラフィムは不意に、ベッドに横倒るヴィネルークの上に倒れ込んだ。
 俺がこうしてやらなければ、駄目なんだ。
「っ……」
 ヴィネルークのくちびるから声にならない吐息が零れ落ちた。見開かれた瞳が虚空を彷徨う。
「げほっ…」
 彼は咳込み、大量の血を吐いた。ゆっくりと頭を動かす。腹に深々と短剣が突き刺さっていた。自らがセラフィムに突きつけ、被虐を迫ったあの短剣だ。
「あぁ、セラフィー…凄く…気持ちいいよ…」
 彼は僕の願いを叶えてくれた。
 彼は真っ赤なくちびるで微笑む。自らの吐いた血で、胸元まで斑に赤く染めながら。
 セラフィムがヴィネルークの体内から刃を引き抜く。ヴィネルークはもう一度喉の奥で呻いた。傷口から勢いよく血が溢れ出す。セラフィムも返り血を浴びた。顔を点々と赤く汚し、温度の無い虚ろな、けれど異様な光を宿した眼で佇む彼は酷く不気味で、ヴィネルークは美しいと思った。
「セラフィー、有難う……僕は…お前にこうされる事を、ずっと…望んでいたんだ…」
 途切れ途切れに言う。セラフィムは彼を繋ぎ止めていたロープを、血に塗れた短剣で切断した。ヴィネルークは手首にロープを絡み付かせたまま腕を上げる。全身が痙攣をはじめる。尚も小さく咳込み、鮮やかな赤を撒き散らしながら、彼はもう殆ど動かないその腕をセラフィムの背中に回した。
「ヴィネ…」
「有難う、セラフィー。僕はもう…痛みに飢える事も、渇く事も…無い…」
 瞼が下ろされ、残された満ち足りた様な微笑みが色を失っていく。腕の中で彼の温もりが薄れて消えていくのを、セラフィムはただ静かに見守っていた。



 その後、動かなくなった冷たい身体を抱えて、セラフィムは礼拝堂へ向かった。十字架に括り付けて、祭壇に掲げる。ステンドグラス越しに降り注ぐ銀色の冴え冴えとした光がふたりを包む。
「愛しているよ、ヴィネ」

“Assuredly, I say to you, today you will be with Me in Paradise.”

 お前の声が聴こえた気がした。
 もう聴こえるはずのないその声が、何処からともなく。



 セラフィムは部屋に戻った。そうして、朝になりけたたましい物音と怒号に叩き起こされるまでの間を、ヴィネルークの匂いに抱かれて眠った。



 手錠を掛けられ、薄暗くて湿った、長い廊下を引かれていく。セラフィムは心神喪失と判断され、軍の精神科施設へ送られる事が決まった。前後と両脇を士官に囲まれながら、外で待つ護送車へと黙々と歩く。屋上に続く非常階段が見えてきた。
 突然、セラフィムが左隣の士官を突き飛ばした。それまでの彼の大人しさに油断していた士官は呆気無くその場に倒れた。セラフィムの動きは速かった。倒れた士官の腰から銃を奪い取り、他の士官が行動を起こすより早く、体当たりして道をこじ開ける。
 そして駆け出す。非常階段を一気に駆け上がり、屋上へ。
「追え!!」
 士官たちは慌てふためいて叫び、靴音を響かせて彼の後を追い掛ける。重い鉄の扉を抜け、雪崩れ込む様に屋上に飛び出した所で、派手な足音がぴたりとやんだ。彼らは驚愕と戦慄の表情で硬直した。
「やめなさい。やめるんだ」
 彼らの内のひとりが震える声で言った。
 眼の前に、こちらを向いてセラフィムが立っていた。手には銃。顔には狂気の笑みを浮かべている。
 彼は手錠を嵌めたままの手で、銃口を自分のこめかみに押し宛てていた。動けないでいる士官たちを前に、彼は更にくちびるの両端を持ち上げる。



「何故殺したか、だって?」


「彼が望んだからだ」








人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -