五 忍び寄る影 「そろそろ来る頃だと思ったよ」 高層マンションの一室。頑丈そうな扉を叩くと、出てくるなりルカはそう言って苦笑した。墓参りを終えたその足で此処へ赴いたクローヴィスはそんな彼を一瞥し、彼が身体をずらして道を開けるのを待たずに、無言のままその横を擦り抜けて部屋に上がり込んだ。 ルカの匂いがする。 懐かしくて忌まわしい、忘れようのない匂い。 クローヴィスは逃げ出したい衝動を、奥歯を噛み締めて堪えた。意を決して此処へ来たのだ。引き返す訳にはいかない。 確かめなければならない。どうしてあの夜あそこにいたのかを。 何を知っているのかを。 だが、ルカは彼に質問する暇を与えなかった。 「どうして此処へ来た?」 がらんとして殺風景なリビングに踏み込んだあたりで、後ろをついてきたルカが不意にクローヴィスの耳元にくちびるを寄せる。 「どうして私に逢いに来た?」 背後から首に手を掛ける。嘲笑う様に。弄ぶ様に。 しなやかなその右手が、絡み付く様に喉を這う。クローヴィスは拒絶する様に反対側へ顔を背けた。 ただ話をしにきただけだ。けれど、どんな思いも上手く言葉にできなかった。拒む事さえできない。噎せ返る様なルカの匂いに胸が塞がって、息をする事さえもが苦しい。密閉された狭い空間の中で何かが渦巻いている様で、息が詰まりそうだ。 判っている癖に。 俺が来る事を予期していた癖に。訊きたい事も知りたい事も全部判っている癖に。 あんな風に突然現れて、俺が不審に思わない訳が無いじゃないか。それが判っていて、よくもそんな事が言えたものだ。 憤慨したクローヴィスは身体を捩ろうとして、小さく息を詰めた。 「未だ痛むの?」 言いながら、ルカはもう片方の手で服の上から腹の傷を撫でる。クローヴィスはくちびるを噛んだ。 いつもそうだ。結局の所、いつだって俺はルカを拒めない。 せめて貴方が何を思い、俺に何を求めているのかが判れば、きっと少しは楽なのに。 ルカは喉の奥で笑った。 「私が求めたんじゃない。君が、私を求めたんだよ」 身体を穿たれる。 この痛みを知っているはずなのに。この感覚には慣れたはずなのに。どうしてなの。心まで抉られる。 こんな事で傷付いたりしない。こんな事で傷付く程に無垢じゃない。 意識を鎖ざして身体を開け渡す方法を、俺は知っているはずなのに。 それなのに。 貴方は吐息ひとつで何もかもをこじ開ける。繋がれた身体から、貴方の感情が流れ込んでくる様で。 ただ怖い。 激しい締め付けにルカは苦しげに息を詰めた。眼を落とせば、苦痛に歪む顔と仰け反る白い喉。 「力を抜け」 きつくシーツを握り締めて悶える身体に向かって囁く。必要以上に身体に力が入っている。 「委ねろ、私に。全てを」 ルカの声に、忘れていた快楽が呼び醒まされる。割れる様な警鐘が頭の中で、耳鳴りの様に鳴り響く。 ルカの吐息がそれを掻き消していく。 やめて、ルカ。理不尽に捩じ込まれる身勝手なただの欲望なら、この身体で受け流す事には慣れたけれど、吐き出される激情を受け止められる程に、俺は強くない。 最後の砦が流される。所詮は砂礫の城。 必死に繋ぎ止めようとしていた理性は、貴方という波に呆気無く、跡形も無く、押し流される。 クローヴィスは頑なにシーツを掴んでいた両手を、遂にルカの背中に回した。 そして、溺れる。 どれ程の時間が経ったのだろう。 クローヴィスはぐったりと四肢を投げ出したまま、ただ眼を閉じて横倒っていた。寝返りを打つ気にもならない。身体が重い。 隣でルカが動く気配があった。彼はおもむろに起き上がってベッドの端に腰掛け、煙草に火を点けた。 「私の所にも来たよ」 酷く唐突に彼は口を開いた。 「何が」 気怠い陶酔感の残る麻痺した様な頭で彼の言葉を反芻し、どうにか答える。 「君の暗殺依頼」 ルカは面白がるような口調で、とんでもない事を言った。クローヴィスはぴくりと肩を震わせ、漸く身体を起こした。一瞬にして頭が冴える。 何か知っているとは思っていたが、こんな形で関わっているとは想像もしていなかった。 「それで?」 彼は低く問い掛けた。 「それで、だと?」 ルカが鼻で笑う。息を潜めていたクローヴィスの警戒心が急速に頭をもたげるのを感じていた。 「引き受けると思うのか?」 顔色ひとつ変えずに逆に問い返されて、クローヴィスは押し黙った。 思わない。 でも、だったらどうしてあそこにいたの? 「君も随分と恨まれたものだね」 ルカは優雅に煙を吐き出しながら、横目でクローヴィスを見た。その吐息に笑みが含まれていた。 随分と恨まれた、か。確かにこれが偶然でないのなら、ルカにレスタト、それからあいつ、少なくとも三人が依頼を受けた事になる。クライアントは何が何でも俺を始末したいらしい。 「君が殺されたなんて噂も耳にした」 ルカは相変わらず愉快げに言った。 ルカの耳にも入っていたのか。 「あれは…」 あれはレスタトと共謀してやったのだと言おうとして、ふとクローヴィスは言葉を切った。不自然に口を噤んだ彼に、ルカが黙って視線を向ける。 「まさか、それで様子見に来たの?」 促される様に思いつきを口に出す。眼を見開いてルカを見上げた彼は、自分で自分の考えに驚いている様だった。 あの日あの場所にいたのは必然では無く、単なる偶然? 何かを知っている訳でも、ましてや関わっている訳でも無く、噂の真相を確かめようとして、偶然あの場に居合わせた? まさか噂を真に受けはしなかっただろうが、殺されたという噂の後でベアトリーチェの様にライブの事も耳にしていたなら、充分に納得がいく。 「まぁ、そんな所だ」 眼を丸くしたまま見つめてくる彼に、ルカは片方の眉を上げてみせた。 多分、ルカが言っているのは全部本当の事だ。ルカが俺を欺く理由は無い。何という思い違いをしていたのだろう。今の今までルカの関与を信じて疑わなかった。恐らくあそこで顔を合わせた事は、彼にとっても想定外の出来事だったのだ。 思考回路がこんがらがって、立ち直るのに時間が掛かった。 そんな彼の横で、当のルカはこうなる事をはじめから予期していた様に涼しい顔をしていた。あそこで鉢合わせてしまった時から、クローヴィスが自分に疑いの眼を向け、こうして此処へ来る事など見越していたのだろう。 「しかし判らないね、何故そんなでまかせが飛び出したのか」 くつくつと笑いながら発せられた言葉に、すっかり警戒を解いていたクローヴィスは幾らか表情を緩めた。流石のルカも噂の真相までは知らないらしい。溜め息をひとつついて彼は口を開いた。 「あれは狂言だ」 「狂言?」 ルカが怪訝そうに微かに眉を寄せる。 「ルカの後に依頼を受けたのはレスタトだからね。それで死体をひとつでっち上げた」 「成程」 ルカは薄く笑って頷いた。 「じゃあそれは?」 顎で腹の傷を示す。クローヴィスは自嘲する様に肩を竦めた。 「随分と恨まれてるって事なんじゃない?」 そう、ルカの言う通り相当恨まれているのかもしれない。或いは知らぬ間に多くの敵を作っていたのかもしれない。そんな事ははじめから覚悟の上だけれど。 クローヴィスの皮肉に、ルカは短く笑った。そして、短くなった煙草の先を灰皿で押し潰すと、それと判る程にくちびるを笑みの形に歪めて身を乗り出した。 「私が始末してやろうか?」 君の敵を。君を怯やかす者を。 囁く様に低く言う。身体の後ろに肘をついて、彼が詰めた距離の分だけ背中を仰け反らせながら、クローヴィスは静かに首を振った。 貴方の助けはいらない。 彼が伏し目がちに薄く笑みを浮かべると、ルカは微かに首を傾げる仕草をして眼を細めた。途端に眼差しが鋭さを増す。 「勝手に殺される事は許さない」 更に顔を近付けて。 「私より先に死ぬ事は許さない。君を手に掛けていいのは私だけ」 全く、何処までが本気なのか判らない。歪む様に笑うルカは鳥肌が立つ程に美しく、酷く狂気じみていた。閉じ籠めていた何かが溢れ出しそうだった。長い間閉じ籠めて、閉じ籠めた事さえ忘れていた遠い記憶。 いや、嘘だ。忘れてなんかいない。忘れた振りをしていただけだ。 貴方と対峙していると、それを思い知らされる。どうして終ったままにしておいてくれなかったのだろう。悪戯に身体を繋ぐだけでは未だ飽き足らないというのか。 「だったら殺せばいい」 クローヴィスは感情の無い無機質な声で言った。本心ではあったが、本気ではなかった。ルカが自分を殺さない事は判っている。そのつもりがあるのなら、とうの昔にそうしている。彼にはクローヴィスと違って、その能力も機会も幾らもあったのだから。 ただ少し、試してみたくなったのだ。 「今は未だ…」 どんな反応をするかと思ったら、ルカは意味ありげな表情で短く言っただけだった。クローヴィスに対してというよりは独白に近い喋り方だった。 「利用価値がある?」 不意に自虐的な気分になって、クローヴィスは自嘲気味に続きを引き取った。ルカは細めていた眼をほんの少しだけ見開いた。 「人聞きの悪い事を」 眼を逸らしたかと思うと、ルカの身体がすっと離れていく。横顔が笑っていた。何処か屈託の無い笑いだった。笑う彼の横顔をそれと無く眼で追いながら、珍しい事だと思った。元々笑わない人ではなかったが、こういう笑い方をするのは珍しい。 ルカはそれ以上何も言わなかった。クローヴィスもそれ以上何も訊かなかった。そっぽを向いて横になり、朝が来るのを待つ事にした。今は未だ、と言ったルカの真意が気になりはしたが、訊いた所で口を開く人ではない事もまた痛い程に判っていた。 眼を閉じながら、矛盾していると思った。先に死ぬ事は許さないと言いながら、俺を殺していいのは自分だけだと言う。ルカの考えている事はいつもよく判らない。 でも。それでも。 ルカにとって俺の存在が未だ意味のあるものなのだとしたら、それでいい。今は、それだけでいい。 >>Next |