一体何度目の朝だろう。白い病室には規則的な音ばかりが響いていた。点滴の管を伝い落ちる液体も、人工呼吸器の音も酷く機械的だった。そんな無機質なものに囲まれて部屋の中央に横倒っているのは、酸素吸入用のマスクと幾つかの管に繋がれた昏睡状態のクローヴィスだった。一命は取り留めたものの、頭を強く打ち、意識が戻らないのだった。
 リズはベッドの横に座って、祈る様な思いで彼の手を握り締めた。ICUから一般病棟に移って三日も経つのに、彼は一向に眼を醒まさない。もうずっとこのままなのかもしれないという思いに囚われそうになる度に、彼女は彼の生命を支えている細い管を睨んだ。自分は無力だと思い知らされる。泣くまいと思う程に涙は溢れた。
 何を祈ればいいのか判らない。
 命だけでも助けて?
 早く眼を醒まして?
 それは勿論その通りだ。
 けれど、左腕に巻かれた包帯の下がどうなっているかを、彼女は知っているから。
「ごめんね、クローヴィス」
 届かない声は殺風景な病室に酷く虚しく響き。
 何故自分は無傷でこうして此処にいるのだろう。
 はじめの内はただ死なないでと願った。生きていてくれさえすればいいと。だが、何日もこうしている内にそれだけではいられなくなった。あの日の惨状は瞼に灼き付いて離れず、何度も何度も繰り返し思い起こされる。眠れば否応無くあの場所に引き戻される。次第に悲しみは罪悪感に変わり、自責に変わり、恐怖に変わった。
 命が助かっても、意識が戻ったとしても、彼は失う事になるのだ。
 眼を醒まし、全てを知ったら彼は…。
 彼女は握り締めた彼の右手を自身の額に押し宛てた。
 その時だった。彼の指がぴくりと動いた気がして、彼女は顔を上げた。
「クローヴィス?」
 呼び掛ける。けれど、返事が返ってくる事は無く、閉ざされた瞼が開く事も無く。
 それでも、彼女の細い手の中で彼の手は確かに生きようとしていた。
「あ……」
 声を上げた彼女の手から彼の手が滑り落ちた。彼の指の動きの意味を諒解した彼女は、両手で口元を覆った。新たな涙が溢れ、それは堰を切った様に流れて止まらなくなった。
 多分、彼の指先が求めていたのはピアノ。
 こんなになっても未だ、彼はピアノを弾きたがっている。弾こうとしている。
「やめて。もうやめて…」
 リズは一度は取り落とした手を掴んで、無我夢中でベッドに押し付けた。見るに耐えなかった。脳裏に浮かぶのは、全てを知り絶望する彼の姿。
 あたしの所為だ。
 あたしを庇いさえしなければ、こんな事にはならなかったかもしれない。
 あたしがクローヴィスからピアノを奪ったのだ。
 それでも彼は笑うだろう。辛そうな素振りなど微塵も見せずに、平気な振りをして。
 そして笑ったまま言うのだ。ピアノを辞める、と。
 少しも平気なんかじゃないのに。どうしようも無く苦しくて堪らないのに。彼にとってピアノを辞めるという事がどれだけ辛い選択かを、知らない彼女ではない。なのに、その苦しみを彼はひとりで抱え込んでしまうのだ。
 いつだってそう。いつだってそうやって抱え込んで、自分の傷にしてしまう。
 やり切れなくて、彼女は遂にクローヴィスの身体の上に泣き崩れた。
 そうして縋り付いて泣いている内に、いつしか彼女は泣き疲れて眠ってしまった。



 夢を見ていた。
 暗くて、淋しくて、悲しい夢。
 真っ暗闇の中で泣いていた。
 だって貴方がいないの。
 繋いでいたはずの手は離れ、貴方を呼ぶ声は闇に飲まれ。
「……ズ…」
 不意に遠くで声が聞こえた様な気がして顔を上げる。
 クローヴィス?
 名前を呼ぼうとした時だった。
「リズ、重いよ…」
 直ぐ近くで発せられた細い声に、ふっと夢から醒めた。リズはのろのろと頭をもたげた。そして次の瞬間飛び起きた。
 寝ぼけた視線を上げたその先に、思いがけず彼の双眸があったからだ。
「クローヴィス!!」
 彼女はまるで悲鳴の様な上擦った声を上げて勢いよく立ち上がり、その拍子に彼女の後ろで椅子が音を立てて転がった。
 彼は未だ虚ろな眼を薄く開けたまま、弱々しく微笑んだ。何か言おうとしたらしかったが、それ以上言葉を紡ぐには至らなかった。彼女の方へ伸ばした右腕も僅かに空を掻いただけで直ぐにはらりと落ち、彼の意識は再び眠りに堕ち。

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