四 Past


「ごめんね、遅くなって」
 クローヴィスは佇んだまま小さく呟いた。それからしゃがんで、手にしていた花束をそっと地面に置く。
 大きな白いユリの花束。リズが好きだった花。
『Liserva Anderson』
 石に刻まれた文字を見つめる。
 此処はなだらかな丘の上の墓所に立つ、リズの墓。その石碑の前にしゃがみ込んだまま、彼は随分長い事微動だにしなかった。坂を登ってくる途中で何人かと擦れ違いはしたが、あたりに人気は無く、時折気紛れな風が耳の傍で唸りを上げながら通り過ぎていく以外は静かなものだった。
 彼は毎月一度、月命日には必ず此処を訪れていた。本当は今年も命日に来たかったのだが、入院していた所為でこんなに遅くなってしまった。
 彼は暫く黙って墓石を眺めていたが、やがて静寂が彼に軽口を叩かせた。
「久し振りにピアノを弾いたよ。そしたらこのザマだけど」
 彼は力無く笑った。自嘲気味にくちびるを歪めて。
 でもね、リズ。
 後悔なんてしていない。
 俺は俺のやり方で前に進むよ。
 君を忘れる為じゃなく、君を忘れない為に。
 そして他でも無い、俺自身の為に。
 君を忘れる事はできない。
 きっとこれからもずっと。
「もう行くね」
 膝に手をついて立ち上がる。答えの返ってこない冷たい石碑に向かって微笑み掛け、クローヴィスはその場を後にした。緩やかな坂を下る途中、一度も振り返らなかった。



     ■ ■ ■



 あれはそう、朝から土砂降りの雨の降る、肌寒い日だった。よく降る日だった。昼なのか夕方なのかも判らない程に空は薄暗く、上がる気配はまるで無かった。
 最後のリハーサルを終え、楽屋に戻ってきたリズは、あたし、雨女なのかしらと少しだけ残念そうに笑っていた。

 その日、クローヴィスとリズは街で一番大きな劇場でコンサートを開く事になっていた。オペラ座を模した内装の四階建ての劇場は音響効果が高く、設備の面でも動員の面でも音楽家にとっては申し分無い場所だった。そこで公演ができるというのは、クローヴィスのピアノとリズの歌が広く民衆に受け入れられている事の証であり、誰もがこのコンサートの成功を確信していた。
 全ての曲目を終えた時、悪天候にも拘らず満員の客席にはスタンディングオベーションが沸き起こり、劇場は拍手喝采に包まれた。
 その中に、冷ややかな一瞥が紛れ込んでいる事など、誰も知るよしも無く。
 大きな花束を受け取ったリズがステージの真ん中で微笑む。振り返った彼女はクローヴィスを手招き、ピアノ椅子から立ち上がって進み出た彼と形式ばったハグを交わす。
 歓声が悲鳴に変わったのはその直後だった。会場にアンコールの掛け声が響く中、突如としてふたりの頭上に設置されたステージセットのシャンデリアが落下してきたのである。
 さっと上空を振り仰いだクローヴィスは、考えるより先に隣のリズを力一杯突き飛ばした。
 突然思わぬ強い力で押された彼女が転倒したのと、その彼女の腕からもぎ取られる様にして落ちた花束を巻き込んでシャンデリアがステージに激突したのは、ほぼ同時だった。轟音と震動と共に、美しかった薔薇の花は無残に千切れ、シャンデリアが落下した拍子に巻き起こった風で花びらはかなり広範囲に飛び散った。
 だが、彼女の眼はそんなものを見てはいなかった。釘付けにされたのは、薔薇の赤とは違う赤。もっとグロテスクで、もっと不吉で、気を失いそうな程の吐き気を催す赤。そして、完全に照明としての形と機能を失い、金属の塊と化した物体の下から覗く、人間の手。
「クローヴィス!!」
 リズは金切り声を上げた。立ち上がる事もままならないまま、半ば這う様にして彼の傍へと辿り着く。けれど、それ以上どうする事もできなかった。恐怖と動揺で、わなわなと身体が震える。
「クローヴィス…クローヴィス…」
 彼女は回らない舌でひたすらに彼の名前を呼び続けた。そんな彼女の元に、程無くして首からバックステージパスをぶら下げたスタッフと警備員が駆け付ける。
「危険ですから下がって下さい」
 彼らは彼女を安全な場所に連れて行こうとしたが、彼女はその場を離れようとはしなかった。
「嫌よ、放して!! クローヴィスが!!」
 泣き叫ぶ彼女を、大の男が三人がかりで取り押さえる。
 そこから先を彼女はよく憶えていない。
 ただ怖かった。彼と離れるのが怖かった。今離れてしまったら、もう二度と逢えなくなってしまう様な気がしていた。
 それなのに、力では敵わなくて、有無を言わせず引き擦られていく。
 気が付いた時には病院だった。


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