バーはいい。一流のバーテンダーは客の話を聞く事にも、聞かないでいる事にも長けている。客が話を聞いて貰いたいのか、そうではないのかを彼らは瞬時に察知する。そして後者と判断した場合、やたらと話し掛けてきたりはしない。
 レスタトがベアトリーチェを連れてきたのは少々かしこまったバーで、ゆっくり話をするのにはもってこいの場所だった。無闇に騒ぎ立てる者はおらず、絶妙なボリュームで流れるBGMが客同士の距離感を保っている。会話をするのに邪魔にならず、幾つかテーブルを隔てた隣の客の耳を気にする必要も無い、心地良い静かさだ。
「お待たせ致しました」
 バーテンダーは言って、丁寧な仕草で頭を下げた。彼はふたりの前にグラスを置くと、会釈をして直ぐに下がった。聞かれたくない話をする為にバーを訪れる者は多い。カウンター席ではなくボックス席に、それも一番端の席に陣取った彼らに余計な干渉はされなかった。
「そのルカって誰なの」
 バーテンダーが離れるなり、ベアトリーチェは切り出した。此処へ来るまでの間に事の顛末は聞いていた。あの夜一旦はライブハウスで合流し、別れた後でルカという人物から彼に連絡があった事、クローヴィスはルカの元にいた事、ルカからクローヴィスを引き取り、中条の病院へ運んだ事。
 レスタトが腹を括るのは早かった。そして一度決断すると、非常に誠実で気さくだった。病院を出ると、あの夜の事を包み隠さず話してくれた。
「知らない?闇の帝王って」
 レスタトは小洒落たビアグラスに注がれたビールを流し込みながら、何でも無い事の様に軽い口調で言った。病院で中条と話していた時とはえらい変わり様だ。
「あの伝説の殺し屋の?」
 ベアトリーチェはグラスを持ち上げた手を宙で止めた。裏社会にさほど明るくなくても、それ位は聞き及んでいる。
「そ」
 それなら話が早いとばかりに、彼は平然と頷いた。
 闇の帝王の異名を取る伝説の殺し屋、それがルカ。名前も顔も一切の素性が知られていない為、いつしかそんなあだ名がついた。
「実在しないと思ってたわ」
「それがするんだよ。ま、そう思うのも無理は無いけどね。実際半分は本当に伝説だし」
 その存在自体が余りに謎めいているので、裏の世界でさえ、あれは都市伝説だという者が少なくない。レスタトが半分は伝説だと言ったのは、噂がひとり歩きをしているからだ。何か不可解な事件があると、大抵闇の帝王が出た、で片付けられる。そうして話に尾ひれが付き、噂が噂を呼んで、ある事無い事まことしやかに語られている。誰も彼を見た事が無いのは、顔を見た者は必ず殺されるからだとも言われており、故にデスマスクと呼ばれる事もある。
「最近では、闇の帝王は死んだなんて噂も飛び交ってるしね。まぁ、いっときに比べりゃ随分大人しくなったからな」
 彼は相変わらず淡々と他人事の様に言って笑った。
 確かに彼の言う通り、この何年か闇の帝王たる殺し屋の噂を聞かなくなっていた。出没しはじめたのはベアトリーチェが警察官になるずっと前の事だが、当時は警察関係者の間でもしきりに噂されていたらしい。だが、足取りはおろか一向に素性すら掴めず、今では実在しないというのが定説になっていた。
「詳しいのね。親しいの?」
ベアトリーチェは思い出した様に掲げたグラスを口に運んだ。闇の帝王が実在していた事にも驚いたが、ふたりがそんな人物と関わりがあった事にはもっと驚いていた。だが、そう広くはない世界だ。そういう事もあるのだろう。
 すると、レスタトの顔色が変わった。
「親しい訳があるか。俺はあいつが大嫌いだ」
 彼は本当に嫌そうに顔を顰めた。しかし、その反応が、彼らがただならぬ関係にある事を如実に物語っている。
「でも貴方はその伝説の男をよく知ってる。そしてクローヴィスも」
「知ってるも何も…」
 そこでレスタトは言葉を切り、深々と溜め息をついた。
「あいつはクローヴィスの父親だからな」
「父親!!?」
「血は繋がってないけどね。クローヴィスは実の親の顔を知らない。産まれて直ぐに捨てられたらしい。それをルカが引き取ったんだそうだ」
 これ以上驚く事など無いと思っていた。次から次へと飛び出してくる信じられない様な事実に、ただただ彼女は唖然とした。
 嘗て世間を震撼させた闇の帝王が実在していて、それがクローヴィスの父親だなどと。
「あいつらはさ、ちょっと特殊なんだよ。親子にもなりきれず、かと言って他の何にもなれない」
 不意に顔を歪めたレスタトは悲しそうに言った。ベアトリーチェはどういう意味だろうと思った。
普通の親子とは違う事は、今までの彼らの様子から何と無く判る。血の繋がりの有無とかそういうものではない何か。クローヴィスとルカの間にはもっと複雑で、レスタトでさえどうする事もできない程の確執めいた何かがありそうだった。恐らく、レスタトが此処までルカを嫌悪する理由もそのあたりにあるのだろう。
 けれど、彼女にはどうしても、彼の話す生身のルカという男と、自分が警察官になりたての頃に思い描いた闇の帝王の人物像が重ならないのだった。ルカという人物が、嘗ての噂通りの冷酷非情な殺人鬼なら、果たして血の繋がらない子を引き取って育てるだろうか。そしてその子が、あんなに繊細で傷付き易い、優しい音色を奏でるピアニストに育つだろうか。
「どんな人なの」
 レスタトは少し考える仕草をした。
「怖い人だよ」
 他に説明のしようがないという様に肩を竦める。それから付け加えた。
「あんたもその内逢えるんじゃないか?」
 一体どんな人なのだろう。レスタトをして大嫌いと言わしめ、伝説とまで呼ばれた男の素顔とは。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -