ルカ…。
 病院の屋上にひとり佇み、クローヴィスは柵にもたれて眼下の街並みを見下ろした。
 色褪せた世界。
 気怠げに聳えるビル、犇めく様に立ち並ぶアパートや喫茶店、その隙間に申し訳程度に点在する緑、行き交う車、蠢く人の群れ。
 青すぎる空。
 時折吹き抜ける風に髪を遊ばせながら、彼は穏やかだが何処か澱んだ表情で、それらを取り留め無く眺めていた。
 どうして、と思う。
 どうして今更俺の前に現れたりしたの。
 もう幾度と無く自問自答した問いだ。その度に、答えの出ないもどかしさに打ちひしがれる。彼は柵の上で交差させた両腕に顎を沈めた。
 慣れ親しんだ街並み。この街の何処かにあの人がいる。
 どうして忘れさせてくれないの。
 どうして終らせてくれないの。
 どうして憎み切らせてくれないの。
 確かに憎んでいた。殺してやりたいと思った程に。実際にそれを口に出した事もある。ルカはただ笑って、それは楽しみだね、と口元を歪めただけだった。感情に任せて口走った、子供じみた他愛の無い罵倒だったと自分でも思う。あの頃の彼にはそれをするだけの力も知恵も得物も無かったから、それが到底不可能な事だと、彼もルカも判っていた。
 眼を閉じて、腕に額を押し宛てる。
 この感情を憎しみだと言い切ってしまえたらいいのに。
 貴方はそれすらも許してくれないというのか。
「ルカ…」
 自分でも気付かない内に、声に出して呟いていた。誰に宛てたでも無い小さな呟きは、風に乗ってひっそりと散っていく。
「またこんな所にいたの」
 ベアトリーチェの声がして、クローヴィスはゆっくりと顔を上げた。振り返る。彼の視界が、階段に続く扉の方から髪を押さえて歩いてくる彼女の姿を捉えた時には、そこにはもうそれまでの物憂げな表情は無かった。
「また?」
 何事も無かったかの様な顔で、彼は不思議そうに首を傾げる。
「前にも屋上にいたでしょ」
「あぁ、そうだね」
 思い出して、少し笑う。前というのは、四年前の事件の後で彼が入院していた時の事だ。
「もういいの?」
 傍まで来た彼女は、柵に片腕を乗せて彼を見やった。
「この通り」
 答える彼の顔色は実際格段に良くなっており、その言葉に偽りは無さそうだった。
「良かったわね」
「君にも迷惑を掛けたね。ごめん、有難う」
 彼が照れ臭そうに言うと、彼女はひらひらと手を振った。気にしていない、と。
 それから彼女は身体の向きを変え、先程までクローヴィスがそうしていた様に柵に寄り掛かり、僅かに顎を上げて空を見上げた。
「何かあったら言って。いつでも力になるから」
 彼女は柵の向こう側に向かって言った。
「え?」
 思わずその横顔を追う。彼女は首だけで振り向き、彼の開け放しの瞳を見据えた。
「続けるんでしょ?」
 確かめる様に。対峙する静かな覚悟と決意を秘めた彼女の眼差しは、この間の様に歪む事も揺れる事も無かった。クローヴィスは眉を歪ませてただ頷く事しかできなかった。こんな時どんな顔をすればいいのだろう。
 ひとりで背負う事に慣れてしまった彼にとって、それは思いも掛けない言葉だった。殺し屋を続ける事を宣言しはしたが、彼女を巻き込むつもりなど無かったのだ。誰も巻き込みたくない。それなのに、彼女は彼の意思を受け止め、尊重し、手を差し伸べてきた。あれ程自分に託せと訴えていたのに。
「だから、力になるから」
 困惑するクローヴィスに、彼女は微笑みかけた。全てを包み込む様なおおらかな笑みだった。纏わり付くあの人の影さえ払拭してしまいそうな程の。
「ベアトリーチェ…」
 漸く声を押し出す。続く言葉が見つからない。
「何て顔してんのよ。貴方殺し屋でしょう?」
 彼女は悪戯っぽく言った。何処かで聞いた様な台詞に、クローヴィスは次の瞬間吹き出した。仕返しとばかりに片眉を上げてみせる彼女を恨めしげに見つめる。
「じゃあね。いつまでもそんな所にいると風邪引くわよ」
 ベアトリーチェは顔に掛かる前髪を掻き上げ、柵から離れた。言いたい事はそれだけだった様だ。
「有難う」
 小気味良い靴音を響かせて遠ざかっていく彼女の後ろ姿に向かって言った。



 階段を降りたベアトリーチェが病室へと続く廊下を歩いていると、角を曲がった先のあたりで誰かが話しているのが聞こえてきた。はじめは気にも留めなかったが、近付くにつれてそれが中条とレスタトの声だという事に気付いた。
「退院、させるのか?」
 レスタトの言うのが聞こえる。彼女からは姿は見えなかったが、余り喜んでいる風では無かった。
「仕方無いだろう、するって聞かないんだから。安静にしてさえいれば、もう身体も問題無いんだし」
 中条が困った様に答える。どうやらクローヴィスとレスタトの間で板挟みになっているらしい。
「安静にしてるタマか、あれが」
 レスタトの口調に非難の色が籠る。
「ま、してないだろうね」
 中条はあっさりと否定した。確かに、とベアトリーチェも思った。酷い言われようだとクローヴィスには同情を禁じ得なかったが、レスタトの懸念も尤もだった。身体が動く様になったのをいい事に、クローヴィスが行動を起こすだろう事は眼に見えている。大人しくなどしている訳が無い。
 それでレスタトは浮かない様子なのかと彼女は納得しかけたが、話はそれで終らなかった。
「行くだろうね、彼の所に」
 溜め息混じりに発せられた中条の意味深な言葉。
 彼の所?
 突然話が見えなくなり、ベアトリーチェは首を傾げた。何の話だろうと思案しながら角を曲がると、肩を竦める中条と、思い詰めた様に怖い顔で俯くレスタトが見えた。
「そんなに行かせたくない?」
 黙ってしまったレスタトに、中条が重ねて問う。
「当り前だろ。お前は平気だっていうのか?あいつがルカと関わるとろくな事にならないだろうが」
 レスタトは憤慨した様に声を荒げた。掴み掛かりそうな勢いだった。
 ルカ?
 思わず眉を顰める。つい先程もその名前を耳にした。
 クローヴィスもそう言った。
 屋上で、彼は確かにその名前を口にした。
 ルカとは一体誰なのだろう。自分の知らない所で何が起こっているのだろう。
 彼らは何を共有しているのだろう。
「僕だってそう思うけれどね、クローヴィスはそれじゃ気が済まないんだろうよ」
 中条は諦めきった調子で言った。混乱の余り、彼女は無意識の内に足を止めていたらしい。視界の隅で突然立ち止まった人影に、彼はおや、と顔を向けた。
「?」
 レスタトがそれに倣う。
「ベアトリーチェ…」
 彼ははっと息を飲み、表情を引き攣らせた。
「ごめんなさい、立ち聞きするつもりは無かったんだけど…」
 我に返り、彼女は慌てた様に口籠る。レスタトは顔の前で手を振ってそれを制した。
「いや、いい。何でも無いんだ。忘れてくれ」
 彼は取り繕う様に笑いさえしたけれど、聞いてはいけない話だった事は一目瞭然だった。眼が笑っていない。
 だが、聞いてしまったからには、無かった事にはできなかった。訊かずにはいられなかった。
「レスタト、クローヴィスが何処へ行くって?」
 逃げる様にくるりと背を向けて立ち去ろうとした彼を引き止める。立ち止まった彼は気まずそうに中条と顔を見合わせた。


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