翌日、レスタトは随分朝早くにやって来た。すっかり生活リズムが規則正しくなってしまったクローヴィスは、普段なら滅多に観ない朝のニュース番組をベッドに座って暇潰しに眺めている所だった。
「もう起きてたんだ」
 静かに開いたドアの隙間から顔を覗かせたレスタトは感心した様に言った。どうやら未だ寝ているものと思ってノックをしなかったらしい。
「お前も入院してみれば判るよ。嫌でも早起きになる」
 うんざりした表情で答えるクローヴィスに、彼が笑う。
「調子はどうだ?」
 彼は来客用の丸椅子を引っ張ってきて、ベッドの横に座った。からりと笑うその横顔を一瞬鋭く横目で見上げてから、クローヴィスはくちびるの端に笑みを上らせた。
「いいよ……とてもね」
 含む所のある笑みに、レスタトは怪訝そうに眉を顰める。どうせ暇だとか退屈だとか早く退院させろだとかいう、他愛の無い愚痴が飛び出してくるものと思っていたのだ。
 眼を見張ったレスタトの視線が、クローヴィスのそれと交錯する。次の瞬間、クローヴィスの顔から笑みが消えた。
「お前、何を隠してる?」
 低く発せられた問いに、レスタトはさっと表情を強張らせた。怖い位に無機質で醒めた眼差しが自分に向けられている。
「本当の事を言え」
 畳み掛ける様にクローヴィスは言った。
 あそこにルカがいた事をお前は知っているのだろう?
 だからどうも様子が変だった。そうだろう?
 言い逃れなどさせまいとするかの様な鋭い眼差しに射抜かれて、レスタトはやがて諦めた様に長い溜め息をついた。
「ベアトリーチェに連絡を貰ったのは本当だ。ただ、その後でルカが電話してきた」
 彼はもうどうにでもなれと半ば開き直ってそう白状した。クローヴィスがこういう顔をする時は、洗いざらいぶち撒けてしまう他に無いのだ。第一、思い出してしまった以上隠し立てする必要も無い。
「ルカが?」
 クローヴィスが信じられないという様に問う。レスタトは肩を竦めた。
「お前を預かってる。送って行くから迎えに来い、とさ」
 彼は淡々と言ったが、実際電話を貰った時には彼とて面食らった。何故クローヴィスがルカの元にいるのかも判らなかったが、ルカが一体何を考えてそうしてきたのかはもっと解せなかった。
「逢ったのか?」
 恐る恐る問うクローヴィスの瞳に力が籠った。レスタトは首を振る。
「いや、いなかった。指定された場所に行ったら車とお前だけだった」
 その時の光景を思い出しでもしたのか、レスタトは言いながら顔を顰めた。
「そうか…」
 クローヴィスは呟き、毛布の下で伸ばした脚の膝のあたりに視線を落とした。その横顔は落胆している様でもあり、ほっとしている様でもあった。
「大丈夫か?」
 レスタトはいたわる様にそっと言った。
 だって、彼がルカと接触して平然としていられる訳が無いから。
 レスタトの思惑に気付いたクローヴィスは顔を上げ、疲れた様に少しだけ笑った。
「平気」
 それでも、レスタトの表情は晴れなくて。辛い時に限って笑おうとするのは彼の癖みたいなものだ。
「本当に平気」
 クローヴィスは微かに眼元を緩める。
 束の間沈黙が流れた。レスタトは暫く彼の横顔を眺めていたが、やがて息をついて口を開いた。
「なぁ、あの晩一体何があった?ルカに何を言われた?」
 今度はクローヴィスが首を振った。
「別に何も。俺は殆ど眠っていたから」
 それから、思い出した様に。
「あぁそうだな、どうして弾いたのかとは言われた」
 自嘲気味に笑いながら。
 笑うクローヴィスを見ていると胸が痛む。
 そんな風に笑うなよ。
「ごめんな」
「どうしてお前が謝る」
 不意に俯いたレスタトに、クローヴィスは不思議そうな顔をした。どうして彼が謝る必要があるだろう。
「俺が余計な事を言わなければ、お前はライブには出なかっただろうし、こんな事にはならなかった」
 苦しげに彼は言った。クローヴィスは吐息で微笑む。
 何だ、そんな事か。
 そうやって自分を責めてしまう気持ちは判らないではなかったが、彼は断じてそんな風には思っていなかった。
「違うよ。お前の所為じゃない」
 きっとこれは必然。あそこでピアノを弾いたから刺されたのではなく、向こうがたまたまこの機会を利用してきたのだ。あのライブに出なかったとしても、向こうが本気なら遅かれ早かれ襲われていたに違いない。
「俺が後悔してないのに、お前がそんな顔をするな」
 そう、再びピアノを弾いた事を後悔なんてしていない。確かに四年前のあの時に、全てを失ってしまえていたら楽だったのかもしれないけれど、そうはならなかった事にはきっと理由があるから。残されたこの腕には意味があるから。
 それに。
 お前が背中を押してくれた事、俺は嬉しかったんだぞ。
 随分長く掛かってしまったけれど、だからまた弾こうと思えた。
 言葉にはしなかったけれど。


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