眼を開けたらそこは、ステージでもピアノの前でもなかった。リズのいない、見慣れぬ部屋。一瞬自分が何処にいるのか判らなくて、クローヴィスは混乱した。
「眼が醒めたかい?」
 求めていたのとは違う声が言った。声の振ってくる方へ僅かに首を巡らせると、視界の端にルカの姿を見つけた。部屋の中は薄暗く、廊下の明かりを背にして立っているルカは、逆光の所為で輪郭が白く光っていた。
「ルカ…」
 掠れた声で呟く。
「魘されてたよ」
 ルカは憐れむ様な響きで言った。
 あぁ、あれは夢。あれは愚かな妄執。俺が信じたかった景色は、未練が見せた安っぽい虚構でしかなかったのだ。
「ピアノなんか弾くからだよ」
 全てを見透かすかの様なルカの言葉。クローヴィスは眼を見張った。驚きを隠せなかった。
 一体いつからあそこにいたというのだろう。
 見上げたルカは酷く嗜虐的な笑みを浮かべていた。
「聴いて、いたのか…?」
 出血の所為ばかりでなく青ざめたくちびるから紡がれた、震える声。ルカは答えなかった。微かに眼を細めただけだった。
「っつ……」
 横倒えていた身体を起こそうとしたクローヴィスは、腹に鋭い痛みを感じて呻く。彼は身体を折り曲げる様にして痛みを堪え、腹に手を宛てた。
 その手に触れた感触に、はっとして自分の腹を見下ろす。傷は止血され、きっちりと包帯が巻かれていた。ルカがやったのだろうか。
「あんまり動くと傷に障るよ」
 ルカは言ったけれど、言葉程に案じている様子は無かった。何処か愉快げでさえある。クローヴィスはそんな彼を一瞬睨み付けてから無視して頭をもたげ、時折顔を歪めながらゆっくりと起き上がった。
 途端に強烈な目眩に襲われる。流石に血を流しすぎたらしい。
「だから言ったのに」
 半分呆れ、半分面白がりながらルカは言い、不意に上半身を屈めて人差し指でクローヴィスの顎を掬った。息が掛かる程に顔を近付けられる。
「どうして弾いたの」
 意地の悪い笑みを浮かべながら彼は囁いた。
「触るな」
 クローヴィスは低い声で言って、敵意にも似た眼差しで彼を睨んだ。ルカは少しも動じなかった。きっと彼には、それが精一杯の虚勢だと判っているのだろう。
「ルカには関係無い」
 精一杯の虚勢と、拒絶。彼を前にして、ミシェルやベアトリーチェの時の様にただの気紛れだとは言えなかった。
「いっそ未練なんて残らない位に徹底的に壊れてしまえばよかったのにね」
 ルカの言葉に、左腕がぴくりと反応する。クローヴィスの瞳を一瞬戦慄が過り、彼は遂に眼を背けた。右手で左腕の傷痕をきつく掴む。
 やめて。聞きたくなんかない。未だ弾ける事はきっと救いになる。そう思い直したからこそ弾く気にもなった。ピアノまで歪んだ残像に変えてしまったら、きっと何も残らない。
 ルカの笑みを含んだ吐息を間近に感じていた。クローヴィスは眼を伏せる事で微かな抵抗を試みるしかなかった。弱々しく頭を振って、ルカの手を振り払おうとする。
 触らないで。お願いだから。
 貴方の前では俺は無力。
 触れられたら、支配されて、狂わされてしまう。
「本当に痛むのは…」
 判っていてわざとクローヴィスを追い詰める様に、彼はその指先を剥き出しの胸に滑らせる。
「此処。そうだろう?」
 彼は心臓のあたりを人差し指で軽く突いた。肉体的な痛みの所為ではなく顔を歪めたクローヴィスに、笑みを濃くする。その瞳の片隅に微かな哀憫を湛えて。
 弾けば思い出して苦しくなる癖に、どうして君はそうやって自分の首を絞めるのだろうね。
「全て失ってしまえば楽になれるのに」
 ルカはふと、独り言の様に呟いた。
「全て失ってしまえば…?」
 ぞっとする様な言葉がもたらしたのは、奇妙な安息。
 聞きたくなんかないのに、ルカの言葉はどういう訳か憧れにも似た幻想的な響きを持っていて、心の奥深くに入り込んでくる。
 失ってしまった大切なものたちを、否定するのではなく、醜く歪めるのでもなく、綺麗なまま留めておけたなら。
 それは、余りに甘美な幻惑。
 ルカの囁きに惑溺したクローヴィスは恍惚とした表情を浮かべた。彼は最早、そこには無い何かを見ていた。
「嘘だよ。君のピアノは嫌いじゃない。失われてしまうには余りに惜しい」
 冗談なのか本気なのか判らない口調で言い、ルカはクローヴィスの身体をそっと押し倒した。左腕をなぞって温もりが離れていく。
「もう少し休め。後で送って行ってやる」
 言い終るか終らないかの内に彼はもう背を向け、戸口に向かっていた。先程までの攻防が嘘みたいに呆気無い幕引きだった。彼に促されるままに再び横になったクローヴィスは、静かに瞼を下ろした。本当は今直ぐにでも此処から逃げ出したかったけれど、何だかどっと疲れて、一度ベッドに背を沈めてしまうと、貼り付いた様に動けなかった。
 ねぇ、リズ。俺は間違っていたの?全てを失ってしまう事もできず、何もかもを受け入れて割り切ってしまえる程潔くもなれず、中途半端に残されてこの怒りと悲しみの矛先さえ持たないまま、何処へも行けない俺はどうすればいい?



     ■ ■ ■



 で、結局俺はどうして此処にいるのだろう。
 クローヴィスは、天井を眺めたまま首を捻った。どうにも腑に落ちない。送って行くとは言ったが、ルカが直接此処へ連れて来たとは考えにくい。
 中条の言葉を思い出す。レスタトが此処へ運んで来たと、彼は言った。
 レスタトが、か…。
 その言葉に偽りが無いのなら…。


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